人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、
また、多くの人のための、購いの代価として、自分の生命を与えるためである。
(マタイ伝20-28)
「人の子が来たのが」
人の子とは、単なる人類の一人という意味である。
自分を特別視したがる現代人が言っても、謙遜の言葉である。
ましてや、神の子が言ったとなれば、謙遜を通り越して卑下である。
神の子にして、かかる真の自 . . . 本文を読む
もし今、不幸な状況にあって苦しみ、
ろくに努力もせず神に祈っても、神は答えられない。
怠慢な私に付き合うほど、神は暇ではない。
私の小なる問題に関わりあうよりも、関与すべき多くの問題がある。
(列王記Ⅰ18-27以下)
もし今、不幸な状況にあって苦しみ、
努力奮闘の末に、刀折れ矢尽きて跪き、
振り絞られた祈りに、神は「必ず」答えられる。
努力の先端の切っ先に、神の恩恵は鮮やかに知ら . . . 本文を読む
キリスト曰く、「わたしには永遠の生命がある」と。(ヨハネ伝6-51)
しかし誰も、この生命のパンを食べない。
キリスト曰く、「わたしの言葉に真理がある」と。(ヨハネ伝8-31)
しかし誰も、その言葉を聞かない。
キリスト曰く、「わたしは世の光である」と。(ヨハネ伝9-5)
しかし誰も、その光を見ない。
キリスト曰く、「わたしが道である」と。(ヨハネ伝14-6)
しかし誰も、その道を進 . . . 本文を読む
この世の栄光と神の栄光は同じではない。
最も正しい人が虐げられ、馬鹿にされることがある。
最も卑しい人が尊敬され、大成功することがある。
一つも罪を犯すことなく、むしろ多くの人々を救ったイエスは、
周囲から気が狂ったと言われ(マルコ伝3-21)、群衆を惑わす者と言われ(ヨハネ伝7-12)、
神を汚す者(マタイ伝9-3)、ベルゼブルにとりつかれていると称された(マルコ伝3-22)。
イエ . . . 本文を読む
あなたの隣人をあなた自身のように愛せ。(マタイ伝19-19)
イエス・キリストは、隣人を愛することを教えた。
「あなたの隣人をあなた自身のように愛せ」と。
しかしそれは、隣人愛の基礎は自己愛であり、
自己愛を正当化するために言ったのではない。
隣人愛の限度内において、自己愛は許されていると言ったのである。
隣人愛の土台に自己愛を据えたのではなく、
隣人愛によって自己愛を限界付けた . . . 本文を読む
あなたがたの犯したすべての背きの罪をあなたがたの中から放り出せ。
こうして、新しい心と新しい霊を得よ。イスラエルの家よ。
なぜ、あなたがたは死のうとするのか。
わたしは、だれが死ぬのも喜ばないからだ。
神である主の御告げ-だから、悔い改めて、生きよ。(エゼキエル書18-31・32)
人間は変わることができるか否か?
ある人は「できる!」と言い、ある人は「できない!」と言う。
しかし問題は . . . 本文を読む