自分の体で,神の栄光を現しなさい。(コリントⅠ6-20/新共同訳)
「栄光を現しなさい」と訳されている単語δοξαω(ドクサゾー)とは,
本来,光輝(δοξα:ドクサ)という単語の動詞形であって,
「光を反映する」という意味から,栄光を帰するとか,
崇めるとかという意味が出てきた。
であるから,単語の本来的意味を考慮すれば,下記のようにも訳せるのである。
自分の体をもって,神を反 . . . 本文を読む
二人または三人がわたしの名によって集まるところには,
わたしもその中にいる。
(マタイ伝18-20/新共同訳)
この箇所の原文は,「二人または三人が集まる」という文と,
「わたしがそこにいる」という二つの文が並置されている。
しかし,どちらが時間的に先行する文であるかは,明確に規定されていない。
つまり,訳し方には二通りあるということだ。
日本語訳聖書のように,
「二・三人が集まる . . . 本文を読む
異邦人たちはこれを聞いて喜び,主の言葉を賛美した。
そして,永遠の命を得るように定められている人は皆,信仰に入った。
(使徒行伝13-48/新共同訳)
「定められている」と訳されている語は,
τασσω(タンソー)という語の完了分詞であって,
受動にも中動にも訳せる表現である。
受動に訳せば「定められている」であって,現行訳のようになる。
中動に訳せば「自分で決心した」であって,訳し直 . . . 本文を読む
ガラテヤ書は通常,パウロが熱烈に語った律法廃止論だと思われている。
しかし,原典読解するにつれて,かかる理解の仕方は,
パウロの語る福音にとって本質的ではないことがわかった。
今日は,ガラテヤ書の根本精神について。
ガラテヤ書の第一章は,パウロが「如何にして救われたか?」を語っている。
そしてその結論は,「律法ではない,キリストだ!」である。
続く第二章は,パウロが「如何にして救いに . . . 本文を読む
使徒行伝を16章まで読了する。
この文書全体の執筆動機や全体の構想はまだ明確ではないが,
気づいたことを一つ。
使徒行伝は通常,使徒の福音宣教の記録だと思われている。
記者ルカはペテロやステファノやバルナバ,パウロ等々によって,
如何にして福音が世界の果てまで広がったか,それを記述したいのだと。
そして,ペテロやパウロが同じような行動をするのは,
(足なえを癒したり,死人を生き返らせ . . . 本文を読む