人生に段階があるように,信仰にも段階がある。
まず第一段階が,イエスの十字架を仰いで,
自分の過去の罪が見逃されていることを認識することである(ローマ書3章)。
次に,イエスに過去の罪を見逃されながら,それでも罪にある自分を認識して,
将来成し遂げられる死人の復活を待ち望むことである(ローマ書8章)。
最後に,過去の罪を見逃され,将来造り変えられる神の恵みにあって,
現在,今・ここで . . . 本文を読む
使徒パウロにとって、聖霊とは何だったのだろうか?
まず第一に、聖霊とは啓示である。(コリントⅠ2-10・11、コリントⅡ3-3)
啓示であると言えば、何か一瞬の奇跡的出来事だと思いがちだが、
パウロにとって聖霊とは、継続的何かである。(ガラテヤ3-2、コリントⅠ6-11、12-3)
つまるところ、パウロにとって聖霊とは、神であり、キリストである。(ローマ8-9)
この継続的啓示は、雲や . . . 本文を読む
アルベルト・シュヴァイツァーは、その「イエス伝研究史」において、
「すべての神学者のイエス伝は、その神学者の意識の投影である」と言った。
同様のことが、新約聖書の福音書そのものに対しても言える。
イエスの論敵として、ルカ伝記者が「ある者(τινεσ)」というところを、
マルコ伝記者は「律法学者(γραμματευσ)」に変え、
マタイ伝記者は「パリサイ人(Φαρισαιοι)」に変え、
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