キリスト者の慰め

無宗教主義の著者が、人生の苦しみに直面し、キリストによって慰めをえる記録

全人類の救済

2009-08-30 16:08:56 | 聖書原典研究(パウロ書簡)
終わりの時代に、全人類は救われるのか?

全人類救済説に反対する者は言う。

「もし全人類が最終的に救われるとすれば、これほど危険な思想はない。

誰でも救われるのであれば、人間の生まれてきた意味、努力の意味がないではないか。

どんなに善行を積んでも、どんなに悪行を為しても救われるのならば、

人生というものは何の意味もないことになる」と。

確かに尤もな意見である。

そして同じ聖書を読んでいて、同じ福音を信じていても、

内村鑑三のように全人類救済説に賛成する者あり、

アウグスチヌスのように反対する者もあるのである。


ならば、パウロはいかなる意見を持っていたかというと、

ローマ書9章~11章の内容からすれば、明らかに賛成の立場である。

むしろパウロ個人の救い(1章~8章)は、人類の救い(9章~11章)によって、

初めて成就するということを言いたいのだと思う。

「キリストにある真実(9-1)」、「大胆な内容(15-15)」とは、

個人の救いが人類の救いを内に包摂していることを言いたいのだと思う。


そして私も、ローマ書及びヨハネ福音書の内容と、自分自身の経験により、

聖書の最終的メッセージは全人類の救済にあると信じる。

キリストの十字架に照らしてみて、私は罪の頭、サタンの僕である。

姦淫の罪、殺人の罪、窃盗の罪を犯したからではない。

さらに酷いことに、それらの罪を内心で犯しつつ、善人を気取るからである。

さらにはイエスを信じていながら(!)、

「どうせイエスにあって救われるのならば、罪を犯してもよいではないか!?」

との悪念が、毎日毎日去来するからである。

さらに一層酷いことに、自分のみが真理を把握し、

自分にのみ正義が存在すると、未だに信じたがっているからである。

他の人の罪は知らないが、自分の内にはどす黒い何か(something)が、

イエスに頼らんとすればするほど姿を現すのである。

きっと、サタンとしてイエスに斥けられた邪悪なる何かが、

私の心の底に巣食っているからであろう。


その私がイエスにあって救われるとすれば、誰でも救われる筈である。

いや、むしろ、もし誰か一人でもイエスの救いに外れる者がいれば、
(その一人がユダであれヒトラーであれ猟奇殺人者であれ)

罪の権化である私は、絶対的に救われない。

私が救われるために全人類の救いを望んでいるのではない、

私の如き罪人を救い給うイエスの恵みを知って、

全人類が救われることを「聖書なしに」確信することができるのである。


すべての人は、その性別・年齢・人種・性格・犯罪歴等々によらず、

イエス・キリストによって救われる。

ローマ書10章においてパウロが引用した旧約の聖句、

「主に信頼する人はすべて失望することはない」(イザヤ28-16)。

旧約の原語にはない「すべて(παs:パス)」を挿入したパウロの心境が、

痛いほどによくわかる気がするのである。



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1 コメント

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Unknown (カワムラ)
2022-07-06 22:16:32
はじめまして。
私はクリスチャンになった際「クリスチャンのみが救われる。それ以外の人々は地獄に落ちる」と教えられました。
そのため、私の家族や友人はクリスチャンではないから、地獄へ行くのか、既に亡くなったあの人は地獄にいるのか、、、と考え、度々恐怖に襲われていました。

この記事を読んで、心がずいぶん楽になりました。
20年ほど前に教会を抜けて、聖書を読まなくなりましたが、ひさしぶりに読もうと思います。

素敵な記事をありがとうございました。

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