ガラテヤ書は通常,パウロが熱烈に語った律法廃止論だと思われている。
しかし,原典読解するにつれて,かかる理解の仕方は,
パウロの語る福音にとって本質的ではないことがわかった。
今日は,ガラテヤ書の根本精神について。
ガラテヤ書の第一章は,パウロが「如何にして救われたか?」を語っている。
そしてその結論は,「律法ではない,キリストだ!」である。
続く第二章は,パウロが「如何にして救いにふさわしくなるか?」を語っている。
そしてその結論は,「割礼ではない,御霊だ!」である。
パウロは二章までにおいて,自分の個人的経験をふまえて,
如何にして救われるか,救いにふさわしい生は何かを語った。
そして,次の3章において,旧約聖書(アブラハム)を引用して証明する。
第三章は,「如何にして救われるか?」の旧約的証明である。
そしてその結論は,「行いではない,約束(キリスト)だ!」である。
第四・五章は,「如何にして救いにふさわしくなるか?」の旧約的証明である。
そしてその結論は,「肉ではない,御霊だ!」である。
最初の二章において,自分を題材に救いの原理について触れ,
次の三章において,アブラハムを題材にして証明する。
そして最後の最後に,第六章において語られているのは,
そういうキリスト者の生きるべき生とは何か,である。
人は普通,ガラテヤ書の律法廃止論(1章)に最も目がいき,
この第六章を単なる道徳論だと思いがちだが,
パウロの論述の仕方をみれば,最も言いたかったことは,
この第六章であることがわかる。
ガラテヤ書劈頭で,権威主義にふんぞりかえる使徒を批判したパウロは,
(2-6「偉大であると思われている人々/δοκοντων τι ειναι」)
この第六章の最初において,読者に,そういう人間にはなるなと言っている。
(6-3「自分を偉大であると思うな/δοκει τισ τι ειναι」)
明らかに最初と最後には対応構造があるのであって,
今までの個人的経験と旧約的証明による福音の論述が,
このことを強く主張するためであったことを証明している。
そしてこれ,ローマ書の論述とピッタリ同じである。
ローマ書の精神及びガラテヤ書の論述の仕方からすれば,パウロのガラテヤ書の結論は,
パウロがキリストと共に十字架につけられたことや(2-20),
愛によって働く信仰のみが大事であること(5-6)や,
御霊の実が何であるか(5-22)ではなく,-もちろん,それらも大事であるが-
「キリストの律法を完うせよ!(6-2,βασταζω)」である。
キリスト者よ,あのエルサレムにいる使徒のように,
自分を救いに定められた特権階級だと自称してふんぞり返り,
他者の弱さを担わない人間にはなるなよ。
キリストの救いを味わった者は,キリストの律法を為すよう召されている。
それは他者の弱さを担い,自分の良心ではなく他者の良心のために生きることである。
これが,パウロの最も言いたかったことなのである。
故に,ガラテヤ書をもって律法廃止論だと思うと間違える。
いや,本質を見逃すことになる。
ガラテヤ書は律法廃止論,割礼廃止論を主張したものではなく,
キリストの律法を推奨している書簡なのである。
ガラテヤ書を読解する上で,もう一つ重要なことは,
ローマ書と比較したパウロの思想の変化である。
ガラテヤ書においてパウロは,
救われた者と未だ救われず頑なな者が並存するという問題を,
アブラハムから始めてその妻サラとハガルの関係で止めている。
つまり,ローマ書における9章~11章に該当する内容がないのである。
いわば,キリスト教神学でいうところの予定論に関して,
パウロの思想は固まっていないのである。
それが後期の書簡ローマ書に至っては,
サラの子イサクとイシマエル,イサクの子ヤコブとエサウ,ヤコブの子孫モーゼとパロ,
そして福音を受け入れた異邦人とイスラエルにまで拡張し,
救われた者と未だ救われていない者の背後に,神の愛を見たのである。
神に従順な者と不従順な者の背後に神を見,
神は憐れむ必要のない者を憐れむ存在であることを見たのである。
救いに定められた者と滅びに定められた者がいるということを言いたいのではなく,
(このような解釈に陥るのは,神ではなく人に目を向けていること,
そして己を神の玉座にあげて,他者を断罪したいという欲求が残存しているからである)
救いを味わった者も頑なな者も,侮ることのできない,
そしてあらゆる人を救わんと欲する,神の愛の強力さの下にあるという理解である。
しかし,原典読解するにつれて,かかる理解の仕方は,
パウロの語る福音にとって本質的ではないことがわかった。
今日は,ガラテヤ書の根本精神について。
ガラテヤ書の第一章は,パウロが「如何にして救われたか?」を語っている。
そしてその結論は,「律法ではない,キリストだ!」である。
続く第二章は,パウロが「如何にして救いにふさわしくなるか?」を語っている。
そしてその結論は,「割礼ではない,御霊だ!」である。
パウロは二章までにおいて,自分の個人的経験をふまえて,
如何にして救われるか,救いにふさわしい生は何かを語った。
そして,次の3章において,旧約聖書(アブラハム)を引用して証明する。
第三章は,「如何にして救われるか?」の旧約的証明である。
そしてその結論は,「行いではない,約束(キリスト)だ!」である。
第四・五章は,「如何にして救いにふさわしくなるか?」の旧約的証明である。
そしてその結論は,「肉ではない,御霊だ!」である。
最初の二章において,自分を題材に救いの原理について触れ,
次の三章において,アブラハムを題材にして証明する。
そして最後の最後に,第六章において語られているのは,
そういうキリスト者の生きるべき生とは何か,である。
人は普通,ガラテヤ書の律法廃止論(1章)に最も目がいき,
この第六章を単なる道徳論だと思いがちだが,
パウロの論述の仕方をみれば,最も言いたかったことは,
この第六章であることがわかる。
ガラテヤ書劈頭で,権威主義にふんぞりかえる使徒を批判したパウロは,
(2-6「偉大であると思われている人々/δοκοντων τι ειναι」)
この第六章の最初において,読者に,そういう人間にはなるなと言っている。
(6-3「自分を偉大であると思うな/δοκει τισ τι ειναι」)
明らかに最初と最後には対応構造があるのであって,
今までの個人的経験と旧約的証明による福音の論述が,
このことを強く主張するためであったことを証明している。
そしてこれ,ローマ書の論述とピッタリ同じである。
ローマ書の精神及びガラテヤ書の論述の仕方からすれば,パウロのガラテヤ書の結論は,
パウロがキリストと共に十字架につけられたことや(2-20),
愛によって働く信仰のみが大事であること(5-6)や,
御霊の実が何であるか(5-22)ではなく,-もちろん,それらも大事であるが-
「キリストの律法を完うせよ!(6-2,βασταζω)」である。
キリスト者よ,あのエルサレムにいる使徒のように,
自分を救いに定められた特権階級だと自称してふんぞり返り,
他者の弱さを担わない人間にはなるなよ。
キリストの救いを味わった者は,キリストの律法を為すよう召されている。
それは他者の弱さを担い,自分の良心ではなく他者の良心のために生きることである。
これが,パウロの最も言いたかったことなのである。
故に,ガラテヤ書をもって律法廃止論だと思うと間違える。
いや,本質を見逃すことになる。
ガラテヤ書は律法廃止論,割礼廃止論を主張したものではなく,
キリストの律法を推奨している書簡なのである。
ガラテヤ書を読解する上で,もう一つ重要なことは,
ローマ書と比較したパウロの思想の変化である。
ガラテヤ書においてパウロは,
救われた者と未だ救われず頑なな者が並存するという問題を,
アブラハムから始めてその妻サラとハガルの関係で止めている。
つまり,ローマ書における9章~11章に該当する内容がないのである。
いわば,キリスト教神学でいうところの予定論に関して,
パウロの思想は固まっていないのである。
それが後期の書簡ローマ書に至っては,
サラの子イサクとイシマエル,イサクの子ヤコブとエサウ,ヤコブの子孫モーゼとパロ,
そして福音を受け入れた異邦人とイスラエルにまで拡張し,
救われた者と未だ救われていない者の背後に,神の愛を見たのである。
神に従順な者と不従順な者の背後に神を見,
神は憐れむ必要のない者を憐れむ存在であることを見たのである。
救いに定められた者と滅びに定められた者がいるということを言いたいのではなく,
(このような解釈に陥るのは,神ではなく人に目を向けていること,
そして己を神の玉座にあげて,他者を断罪したいという欲求が残存しているからである)
救いを味わった者も頑なな者も,侮ることのできない,
そしてあらゆる人を救わんと欲する,神の愛の強力さの下にあるという理解である。
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