キリスト者の慰め

無宗教主義の著者が、人生の苦しみに直面し、キリストによって慰めをえる記録

反キリストの霊

2010-05-22 20:31:38 | 聖書原典研究(ヨハネ文書)
イエスのことを公に言い表さない霊はすべて、神から出ていません。
これは、反キリストの霊です。(ヨハネ書Ⅰ4-3/新共同訳)



「言い表さない」と訳された部分は、原語(ネストレ)においても誤訳はない。

正確に訳せば「宣言しない(ο μη ομολογει)」となるのだろうが、

まあ、同じ意味だ。

新共同訳及びネストレの意味に従えば、

まるで、イエスはキリストであると公言しない者は、

反キリストの霊に支配されているかのように聞こえる。

すなわち、この世において周囲の人々に「イエスはキリストである、神である」と、

言葉にできないような者は、反キリストの霊だということになる。

これ、ヨハネ書の著者の根本思想からすれば、随分と表層的なものだと思う。
(記者の根本思想からすれば、「人を愛せない者はイエスの霊ではない」となるのでは?)


しかしキリスト教に懐疑的だったハルナックの意見に従えば、

「宣言しない」の箇所は本来、「反故にする」の誤訳であるという。

ハルナックの意見に従えば、下記のようになろう。


すべてイエスを反故にする霊は神からのものではない。
これは反キリストの霊である。(ヨハネ書Ⅰ4-3/私訳)



イエス・キリストを反故にする霊、すなわち敬虔であれ不敬であれ、

キリスト教信者であれ不信者であれ、正統教義の信奉者であれ異端であれ、

イエス・キリストの御心を蔑ろにする人間は、反キリストの霊にある。

自分は正統教義を信じているといって、他者を軽蔑する者。

いや、自分は救いに定められているといって、

他者を一段低い階梯にある者として「愛して」やり、

心の内では軽蔑しているくせに、己の自己満足的な愛に恍惚となる者。

そういった人間は、反キリストの霊にある者である。

キリスト教の正統教義を信奉せずとも、キリストの御心を実践せんと、

自分の目の前の(社会的にというよりは良心的に)弱き者のために、

自己を捧げんとする者はキリストの霊にある者である。


己は狂信者と称されるとも、キリストにあって弱き者を助けんとしたサヴォナローラは、

真正のキリスト者である。

しかし己は敬虔な正しいキリスト教徒と称されても、

弱き者を踏み躙らんとする西洋的キリスト教徒は反キリストの勢力である。

己は人格者として賞賛されるとも、

キリストにあって人類の罪を償わんとしたシュヴァイツァーは、真正のキリスト者である。

しかし名目的にキリスト者たれば、己の救いを確定したといい気になり、

富者が気儘に貧者に金を施すように、優越的に他人を愛する者は、

悪魔の手先である。


キリストの弟子は、キリスト教徒であるとは限らない。

キリストの弟子は、努力して人生という泥沼の中で、

他人を愛さんと身を捧げる者のことをいう。


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