キリスト者の慰め

無宗教主義の著者が、人生の苦しみに直面し、キリストによって慰めをえる記録

己自身を吟味せよ

2010-09-26 18:23:48 | 聖書原典研究(パウロ書簡)
パウロ書簡のキーワードに、δοκιμαζω(ドキマゾー)という語がある。

この語は「吟味する、確かめる」という意味であって、

吟味した結果として「是認する」という意味にもなる。

語の使用頻度もそうだが、使われている重要度においても、

この語は、「義(δικαιοσυνη)」とか「キリストにあって(εν Χριστω)」

に匹敵するパウロ書簡のキーワードなのである。

問題なのは、何を吟味し、その吟味は何を基準にしているのか?


人間は自分自身を吟味し続けよ。
(コリント書Ⅰ11-28/私訳)

自分自身の行いを吟味し続けよ。
(ガラテヤ書6-4/私訳)

何を吟味するのかというと、それは自分自身である。


あなた方は自分自身が神の真実にあるか吟味せよ。
あなた方は自分自身を知らないのか?
イエス・キリストはあなた方の内におられることを。
(コリント書Ⅱ13-5/私訳)

自分自身を吟味する基準は、神の真実であるイエス・キリストである。

キリストによって知らされた神の御心(テサロニケⅠ5-18、ローマ12-2)、

キリストによって成就したキリストの律法(ガラテヤ書6-2)、

すなわち、キリストの十字架の出来事によって(ピリピ書2-5~11)、

己自身の生を吟味せよと言っている。


福音を宣べ伝えるにしても(テサロニケ書Ⅰ2-4)、

教会生活をするにしても(コリント書Ⅰ11-27)、

他人を赦すにしても(コリント書Ⅱ2-10)、

社会生活を送るにしても(ローマ書14-18)、

いつも己自身をキリストの十字架による神の御心によって吟味し、

生き方を考えよ、とパウロは言う。


イエス・キリストを信じる、福音を受け入れるということは、

パウロの主張によれば、絶えず吟味をする人生に入る、ということを意味する。

しかしこれ、普通倫理でいうところの「反省」とは違う。

反省とは、自分自身の良きものや思想を基準として、考えることである。

しかしパウロのいう「吟味」とは、イエス・キリストの十字架の前に立つことによって、

己自身を見つめ、修正し、決断し、行動することを意味する。


あなた方の間では、キリスト・イエスの出来事こそ思え!
(ピリピ書2-5/私訳)


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