同じように,妻たちよ,自分の夫に従いなさい。
夫が御言葉を信じない人であっても,
妻の無言の行いによって信仰に導かれるようになるためです。
(ペテロ書Ⅰ3-1/新共同訳)
「妻の無言の行い」と訳されている「無言の」とは,
原語では「言葉なしに(ανευ λογου)」であって,
この「言葉」とは単数形である。
単数形の「言葉」とは,この著者にとって福音を意味しているのであれば,
「無言の」ではなく「福音なしに」と訳されるべきだ。
また「行い」と訳されている原語「αναστροφησ」とは,
本来,振る舞い全体を指す用語であれば,「生き方」と訳すべきだろう。
さらに,「信仰に導かれる」と訳されている「κερδαινω」とは,
何かを得ることを意味する。
夫を得ることが,自分の教会に引き入れることであれば,
信仰に導かれると訳してもいいだろうが,夫が救われること,
すなわち,神が夫を救うことを問題にしているのだから,
「神に救い取られる」と訳すべきだろう。
訳し直せば,下記となる。
もしある人が福音に従わなくても,妻の生き方を通して,
福音なしに,神は救い取るだろう。
(ペテロ書Ⅰ3-1/私訳)
この箇所において論じられているのは,
キリスト者が召されたのは,イエス・キリストの足跡に従うためであり,
(ペテロ書Ⅰ2-21)
まさしくキリストのように,神にのみ希望を置いて,人々の罪を背負うことである。
(ペテロ書Ⅰ2-22~2-25)
であるから,妻が夫に従う古き日本の男女関係や,
夫が妻のご機嫌を伺う現代日本の男女関係を問題にしているのではなく,
キリストに従うことの意味を問うているのである。
聖書の他の箇所でも言えることなのだが,
人はあまりにも,キリストから目をそらして聖句を読みすぎなのだ。
聖書を読む理由は,他人を救うためではない(救うのは神だ!)。
聖書を読む理由は,己自らがキリストに従うためである。
そして,他人を救うために聖書を読もうとするから,
聖書を読みたくなくなり,聖書から離れるのである。
私にもそういう時代があった。
イエスの十字架上の贖罪が,過去の罪の見逃しではなく,
完全なる救いだと思い,自分はもはや救われたと考える。
もう救われたのだから,聖書を研究する必要などなく,
たとえ他人を救うためだと自分で自分を強いても,
自分の内に肝心の愛念がないのだから,聖書研究の熱情は萎える。
(愛念は真の救いを認識した時に溢れるものだ)
すなわち,他人に自由を約束しながら,自分が自分の驕りに呪縛されるのだ。
(ペテロ書Ⅱ2-19)
我々は,神にのみ希望を置いて,他者に接し,
我々は,神にのみ従いたいと欲して,聖書を学ぶ。
かかる単一なる姿勢が,聖書を学ぶ上で必要なのだと思う。
※ツイッターを始めました。
https://twitter.com/eliyahx2000
夫が御言葉を信じない人であっても,
妻の無言の行いによって信仰に導かれるようになるためです。
(ペテロ書Ⅰ3-1/新共同訳)
「妻の無言の行い」と訳されている「無言の」とは,
原語では「言葉なしに(ανευ λογου)」であって,
この「言葉」とは単数形である。
単数形の「言葉」とは,この著者にとって福音を意味しているのであれば,
「無言の」ではなく「福音なしに」と訳されるべきだ。
また「行い」と訳されている原語「αναστροφησ」とは,
本来,振る舞い全体を指す用語であれば,「生き方」と訳すべきだろう。
さらに,「信仰に導かれる」と訳されている「κερδαινω」とは,
何かを得ることを意味する。
夫を得ることが,自分の教会に引き入れることであれば,
信仰に導かれると訳してもいいだろうが,夫が救われること,
すなわち,神が夫を救うことを問題にしているのだから,
「神に救い取られる」と訳すべきだろう。
訳し直せば,下記となる。
もしある人が福音に従わなくても,妻の生き方を通して,
福音なしに,神は救い取るだろう。
(ペテロ書Ⅰ3-1/私訳)
この箇所において論じられているのは,
キリスト者が召されたのは,イエス・キリストの足跡に従うためであり,
(ペテロ書Ⅰ2-21)
まさしくキリストのように,神にのみ希望を置いて,人々の罪を背負うことである。
(ペテロ書Ⅰ2-22~2-25)
であるから,妻が夫に従う古き日本の男女関係や,
夫が妻のご機嫌を伺う現代日本の男女関係を問題にしているのではなく,
キリストに従うことの意味を問うているのである。
聖書の他の箇所でも言えることなのだが,
人はあまりにも,キリストから目をそらして聖句を読みすぎなのだ。
聖書を読む理由は,他人を救うためではない(救うのは神だ!)。
聖書を読む理由は,己自らがキリストに従うためである。
そして,他人を救うために聖書を読もうとするから,
聖書を読みたくなくなり,聖書から離れるのである。
私にもそういう時代があった。
イエスの十字架上の贖罪が,過去の罪の見逃しではなく,
完全なる救いだと思い,自分はもはや救われたと考える。
もう救われたのだから,聖書を研究する必要などなく,
たとえ他人を救うためだと自分で自分を強いても,
自分の内に肝心の愛念がないのだから,聖書研究の熱情は萎える。
(愛念は真の救いを認識した時に溢れるものだ)
すなわち,他人に自由を約束しながら,自分が自分の驕りに呪縛されるのだ。
(ペテロ書Ⅱ2-19)
我々は,神にのみ希望を置いて,他者に接し,
我々は,神にのみ従いたいと欲して,聖書を学ぶ。
かかる単一なる姿勢が,聖書を学ぶ上で必要なのだと思う。
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