キリスト者の慰め

無宗教主義の著者が、人生の苦しみに直面し、キリストによって慰めをえる記録

宗教の終わり

2011-12-25 17:39:14 | 聖書原典研究(ヘブル書・黙示録)
なぜなら,キリストは唯一の献げ物によって,
聖なる者とされた人たちを永遠に完全な者となさったからです。
(ヘブル書10-14/新共同訳)



「聖なる者とされた」と訳されている箇所は,まるで過去形のような印象を与えるが,

原文は現在分詞であって,「聖なる者とされている」と訳すべきである。

また,「完全な者となさった」と訳されている箇所は,

時制は正しい(現在完了)のだが,意味自体を訂正すべきである。

「完全にする」と訳されている原語τελωとは,

ヘブル書においてはキーワードとなる語であって(非常に多用されている!),

「完全にする」という意味以上に,「仕上げる」という意味の方が強い。
(11章の内容が根拠)

であるから,訳し直せば,下記のようになろう。


なぜなら,彼は一つの献げ物によって,
聖められている人々を永遠に仕上げてしまった。
(ヘブル書10-14/私訳)


イエス・キリストの犠牲的生涯は,人間を既にその目標に到達せしめた。

その結果が,今なお個々人に実現している。

「キリストに向かって努力せよ!」(4-11)とのヘブル書著者の訴えは,

「あなた方は既に救われた!」(10-14)との圧倒的恩恵を基にして成り立っているのである。


神の恩恵,すなわち,キリストの犠牲を充分味得したからこそ,

ヘブル書著者は最もラディカルに宗教(キリスト教的宗教も含む)を否定する。


イエスの恥辱を担って,イエスのもとに至るために,
陣営の外に出て行こうではないか!?
(ヘブル書13-13/私訳)


旧約的前提を考慮している箇所の文言であれば,「陣営の外」とは,

宗教的に神聖でない地,誰もが聖でないと考えた場所を意味する。

すなわち,この箇所で著者が言いたいのは,こうである。

イエスは,当時の誰もが聖でないと考えた地で血を流した。

神なき者,聖でない者,宗教を否定する者として・・・。

であるから,イエスに従う者も,誰もが神なき場所と考える地において,

イエスのように血を流さねばならない。

これが,我らの祭壇である,と。
(ヘブル書3-10)


ヘブル書は,すべての宗教的現象に反抗せんと欲する者(無宗教主義)の,

最も愛すべき経典である。



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