神を愛する者たち,つまり,御計画に従って召された者たちには,
万事が益となるように共に働くということを,私たちは知っています。
(ローマ書8-28/新共同訳)
「万事が共に働く」とは,原語ではたった二語であって,
「パンタ スネルゲイ(παντα συνεργει)」である。
だがこの箇所には異読があって,一部の写本には後ろに「神は(ο θεοσ)」がつく。
新共同訳やネストレ27版はつかない方を元の読みとし,
新改訳はつく方を元の読みとしているが,学問的にはつかない方に分があるという。
どっちなのだろうか?
「神は(ο θεοσ)」が本文でない最も有力な根拠は,
この語をつけることによって,三語前にある「神を(τον θεον)」と語の意味が重なり,
文章自体が流暢ではなくなる,ということである。
ギリシャ文化人パウロが,このような冗長な文章を書く筈がない,と。
文法的にはそうであるし,お利口な分析ではあるだろうが,
かかる観点には,重大なミスがある。
パウロが口述筆記しているという事実である。
文章を書いて,後で見直し,文章全体の美しさを整えた形跡があるのならば,
かかる冗長な文章をパウロは書く筈がない。
しかし,口述筆記し,書き直すということが滅多になかった当時の状況に鑑みれば,
文法上の誤謬のみによって写本の成否を判断することはできない。
私は,「神は(θεοσ)」という語は元々あったものだと考えている。
その第一の根拠は,文章全体の流れである。
8-26までの主語は「聖霊(το πνευμα)」であって,
8-28以下の主語は明らかに「神(ο θεοσ)」である。
しかし8-28以下に「神」という主語は一つもない。
故に,パウロは8-28で書いた「神(ο θεοσ)」という語をもって,
8-28以下全体の主語としたと見るのである。
第二の根拠は,「神は」という語があった方が,
パウロという人間の書き方に合致するからである。
パウロという人は,時々,当時のストア哲学でよく用いられた文章を引用する。
それは,誰もが知っていた文章を少し変えて,自身の福音を説明せんとするからである。
例えば,ローマ書11-36。読者は,以下の二つの文を比較せられたい。
マルクス・アウレリウス「自省録」
「万物は,汝から出で(απο),汝の内にあり(εν),汝に帰する(εισ)」
ローマ書11-36
「万物は,彼から出で(απο),彼によって(δια),彼に帰する(εισ)」
ほとんど同じである。だが,少し違う。
パウロは「キリストにあって(εν)」とは言うが,「神にあって(εν)」とは絶対言わない。
当時のストア哲学にとって,今あるこの身そのものが,
既に絶対的な救いの境地に達したものである。
だが,パウロにとって,究極的救いは将来のことであって,
今現在の自分は,究極的救いの一歩手前にある存在である。
そういうことをパウロは主張したいから,
誰もが知っていたストア主義の文句を少し変えて,引用するのである。
今考察している箇所も同じである。
「万事が益となる(παντα συνεργει εισ αγαθον)」とは,
当時のストア哲学で流行した文句である。
(ディオゲネス・ラエルティウス「ギリシャ哲学者列伝」)
すべての存在は,自分が黙っていたって,どう行動したって,
世界理性の企てによって善に向かうように仕組まれている。
かかる楽観的・静的な人生観こそ,当時の流行思想であった。
しかしパウロは,その背後に神を見,イエス・キリストの御業を見たからこそ,
当時の流行文句の狭間に「神は」を挿入して,自身の福音を語ったのである。
非常にパウロらしい表現であると思う。
以上の考察によって,この箇所の原文は,「神は」がある読み,すなわち,
「パンタ スネルゲイ ホ テオス(παντα συνεργει ο θεοσ)」と定まった。
だが,ここでまた一つ,問題が生じてくる。
パンタ(παντα)は,目的格にも副詞的にも訳せるし,
スネルゲイ(συνεργει)は,自動詞にも他動詞にも訳せるから,
以下の二つの訳し方になろう。
「神はすべてを共に働かせて」「神はすべてにおいて共に働き」
しかしどちらせよ,これらの訳は非常にパウロらしくない。
パウロは「働く」という表現をする場合,
主語が人であればこの箇所にある語「スネルゴー(συνεργω)」を用いる。
だが,主語が神であれば例外なく「エネルゴー(ενεργω)」を使う。
人間というものは,考え方はコロコロ変える存在だが,なかなか言葉の癖を変えられない存在であれば,
パウロがこの箇所にだけ,普段は使わない表現をしたとは考え難い。
ストア主義の文句を微妙に変えるパウロの表現を考えれば,
「神は(ο θεοσ)」はあって然るべきである。
だが,使われている動詞(συνεργω)から考えれば,
「すべては(παντα)」が主語になるべきであって,
「神は(ο θεοσ)」は取り除かれるべきである。
どっちを選んでも,矛盾である。
私は,パウロが口述筆記をしていて,文法的な正確さを期していないことを考えれば,
「パンタ スネルゲイ ホ テオス(παντα συνεργει ο θεοσ)」の中には,
二つの主語(すべては,神は)があったと考えている。
神を愛する者にとって,すべての存在は,
-人間も(8-31・33・34),出来事も(8-35),存在全般も(8-38・39)-
イエス・キリストの来臨である究極的救いに向かって働く。
パウロは,当時のストア主義の表現を借りて,そう表現した。
だが途中で,「いや,それらを動かしているのは神なのだ!」という強烈なる思いに駆られ,
「神は」を述べたのである(ピリピ書2-13の精神と同一である)。
この箇所のミソは,パウロが「万物」も「神」も主語にしたことにある。
哲学者は「万物」のみを主語とし,まるで人間が人間自身の意志によって,
どうにでもなるというような人生観を主張する。
宗教家は「神」のみを主語とし,まるで神が人間を操り人形のように操作し,
人間の意志などまるで存在しないかのような主張をする。
どちらにせよ,きわめて静的な世界観を主張する。
だがパウロは違った。パウロは,この世の多様な人物・出来事・事件の背後に,
侮ることのできない,そして究極的救いを齎す神を見たのである。
故に,かかるパウロの心理的変化を考慮しつつ訳すと下記のようになると思う。
私は実に知っています。神を愛する人々に,
すべてのものが究極的救い(イエスの到来)のために,共に働くことを。
いや!それを為しているのは神なのだ!
神はその御心に従って召したと同じ仕方で,働いておられるのです。
(ローマ書8-28/私訳)
万事が益となるように共に働くということを,私たちは知っています。
(ローマ書8-28/新共同訳)
「万事が共に働く」とは,原語ではたった二語であって,
「パンタ スネルゲイ(παντα συνεργει)」である。
だがこの箇所には異読があって,一部の写本には後ろに「神は(ο θεοσ)」がつく。
新共同訳やネストレ27版はつかない方を元の読みとし,
新改訳はつく方を元の読みとしているが,学問的にはつかない方に分があるという。
どっちなのだろうか?
「神は(ο θεοσ)」が本文でない最も有力な根拠は,
この語をつけることによって,三語前にある「神を(τον θεον)」と語の意味が重なり,
文章自体が流暢ではなくなる,ということである。
ギリシャ文化人パウロが,このような冗長な文章を書く筈がない,と。
文法的にはそうであるし,お利口な分析ではあるだろうが,
かかる観点には,重大なミスがある。
パウロが口述筆記しているという事実である。
文章を書いて,後で見直し,文章全体の美しさを整えた形跡があるのならば,
かかる冗長な文章をパウロは書く筈がない。
しかし,口述筆記し,書き直すということが滅多になかった当時の状況に鑑みれば,
文法上の誤謬のみによって写本の成否を判断することはできない。
私は,「神は(θεοσ)」という語は元々あったものだと考えている。
その第一の根拠は,文章全体の流れである。
8-26までの主語は「聖霊(το πνευμα)」であって,
8-28以下の主語は明らかに「神(ο θεοσ)」である。
しかし8-28以下に「神」という主語は一つもない。
故に,パウロは8-28で書いた「神(ο θεοσ)」という語をもって,
8-28以下全体の主語としたと見るのである。
第二の根拠は,「神は」という語があった方が,
パウロという人間の書き方に合致するからである。
パウロという人は,時々,当時のストア哲学でよく用いられた文章を引用する。
それは,誰もが知っていた文章を少し変えて,自身の福音を説明せんとするからである。
例えば,ローマ書11-36。読者は,以下の二つの文を比較せられたい。
マルクス・アウレリウス「自省録」
「万物は,汝から出で(απο),汝の内にあり(εν),汝に帰する(εισ)」
ローマ書11-36
「万物は,彼から出で(απο),彼によって(δια),彼に帰する(εισ)」
ほとんど同じである。だが,少し違う。
パウロは「キリストにあって(εν)」とは言うが,「神にあって(εν)」とは絶対言わない。
当時のストア哲学にとって,今あるこの身そのものが,
既に絶対的な救いの境地に達したものである。
だが,パウロにとって,究極的救いは将来のことであって,
今現在の自分は,究極的救いの一歩手前にある存在である。
そういうことをパウロは主張したいから,
誰もが知っていたストア主義の文句を少し変えて,引用するのである。
今考察している箇所も同じである。
「万事が益となる(παντα συνεργει εισ αγαθον)」とは,
当時のストア哲学で流行した文句である。
(ディオゲネス・ラエルティウス「ギリシャ哲学者列伝」)
すべての存在は,自分が黙っていたって,どう行動したって,
世界理性の企てによって善に向かうように仕組まれている。
かかる楽観的・静的な人生観こそ,当時の流行思想であった。
しかしパウロは,その背後に神を見,イエス・キリストの御業を見たからこそ,
当時の流行文句の狭間に「神は」を挿入して,自身の福音を語ったのである。
非常にパウロらしい表現であると思う。
以上の考察によって,この箇所の原文は,「神は」がある読み,すなわち,
「パンタ スネルゲイ ホ テオス(παντα συνεργει ο θεοσ)」と定まった。
だが,ここでまた一つ,問題が生じてくる。
パンタ(παντα)は,目的格にも副詞的にも訳せるし,
スネルゲイ(συνεργει)は,自動詞にも他動詞にも訳せるから,
以下の二つの訳し方になろう。
「神はすべてを共に働かせて」「神はすべてにおいて共に働き」
しかしどちらせよ,これらの訳は非常にパウロらしくない。
パウロは「働く」という表現をする場合,
主語が人であればこの箇所にある語「スネルゴー(συνεργω)」を用いる。
だが,主語が神であれば例外なく「エネルゴー(ενεργω)」を使う。
人間というものは,考え方はコロコロ変える存在だが,なかなか言葉の癖を変えられない存在であれば,
パウロがこの箇所にだけ,普段は使わない表現をしたとは考え難い。
ストア主義の文句を微妙に変えるパウロの表現を考えれば,
「神は(ο θεοσ)」はあって然るべきである。
だが,使われている動詞(συνεργω)から考えれば,
「すべては(παντα)」が主語になるべきであって,
「神は(ο θεοσ)」は取り除かれるべきである。
どっちを選んでも,矛盾である。
私は,パウロが口述筆記をしていて,文法的な正確さを期していないことを考えれば,
「パンタ スネルゲイ ホ テオス(παντα συνεργει ο θεοσ)」の中には,
二つの主語(すべては,神は)があったと考えている。
神を愛する者にとって,すべての存在は,
-人間も(8-31・33・34),出来事も(8-35),存在全般も(8-38・39)-
イエス・キリストの来臨である究極的救いに向かって働く。
パウロは,当時のストア主義の表現を借りて,そう表現した。
だが途中で,「いや,それらを動かしているのは神なのだ!」という強烈なる思いに駆られ,
「神は」を述べたのである(ピリピ書2-13の精神と同一である)。
この箇所のミソは,パウロが「万物」も「神」も主語にしたことにある。
哲学者は「万物」のみを主語とし,まるで人間が人間自身の意志によって,
どうにでもなるというような人生観を主張する。
宗教家は「神」のみを主語とし,まるで神が人間を操り人形のように操作し,
人間の意志などまるで存在しないかのような主張をする。
どちらにせよ,きわめて静的な世界観を主張する。
だがパウロは違った。パウロは,この世の多様な人物・出来事・事件の背後に,
侮ることのできない,そして究極的救いを齎す神を見たのである。
故に,かかるパウロの心理的変化を考慮しつつ訳すと下記のようになると思う。
私は実に知っています。神を愛する人々に,
すべてのものが究極的救い(イエスの到来)のために,共に働くことを。
いや!それを為しているのは神なのだ!
神はその御心に従って召したと同じ仕方で,働いておられるのです。
(ローマ書8-28/私訳)
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