キリスト者の慰め

無宗教主義の著者が、人生の苦しみに直面し、キリストによって慰めをえる記録

聖書における「自由」の概念

2011-03-06 17:45:36 | 聖書原典研究(パウロ書簡)
主は私に仰せられた。「人の子よ。自分の足で立て」
彼が語り始めると,霊が私の中に入り,私を自分の足で立たせた。
(エゼキエル書2-1・2)



聖書において,理性(νουs:ヌース)とは如何なる意味があるのだろうか?

人間理性とは,罪の虜であり,汚れたものである(ローマ1-28)。

だが一方で,理性は善だとも言われている(ローマ7-23,11-34,コリントⅠ2-16)。

故に人間に要求されていることは,キリストの出来事に照らし合わせて,

理性的に生きよ,ということである(ローマ12-2,14-5,ピリピ4-7,コリントⅠ14-19)。

すなわち,悪を選ばずして,善を選べ,ということである。

この善を選ぶときの理性のことを,聖書では良心(συνειδησιs:スネイデーシス)と呼ぶ。

面白いことに,この良心という語の箇所に,聖霊とかキリストという語を置き換えても,

何の矛盾もないということである(ローマ2-15,9-1,コリントⅡ4-2)。

すなわち,聖書において,良心とは,神に属する語であることがわかる。

聖書において,理性とは,いわば善とか悪かの代名詞ではなく,

善にも悪にも属することのできる機能なのである。

人間は,理性によって,己の罪のために奉仕させることもできれば,

キリストの出来事に照らし合わせて,神のために奉仕することもできる。

理性とは,己の欲望を投影した罪の声でもあるし,

キリストにあって,神の声でもあるのである。
(カール・バルト「キリスト教倫理学総説Ⅱ/2」)


人間が,ただキリストを目指して,自分の理性を神の声として聞き従うこと,

これが,聖書の称する「自由」である。

人は思うかもしれない,「そんな危険なことはない」と。

「人間というものが自分の声を神の声として聞くということは,

最も恐るべき事態を引き起こす筈だ」と。

しかし,それは二つの原因によって,あり得ない。


まず第一に,キリスト者は,良心の命令を自分にしか向け得ないからである。
(コリントⅠ8-2,ローマ1-14,12-3)

普通人間は,良心の命令を,他人に向ける。

宗教信者の場合,自分の良心の命令を,神の預言として,他人に向ける。

しかしキリスト者は,自分の良心の命令,「~ねばならない」という指示・責任を,

ただ自分にのみ向けられるものとしてしか,理解できないからである。


第二に,キリスト者は,キリストの出来事に照らし合わせて,

目の前の具体的隣人を神の律法として理解する。
(ローマ15-1~3,ガラテヤ6-2)

目の前の現実を神の御心として,キリストに従うべき召命として,

自分に課せられた義務として理解する。

必ずしも正しくない人々の弱さを担うこと(βασταζω:バスタゾー),負うこと,

そのことによって,罪と戦うこと,

それがたとえ人にも神にも見捨てられているように思われても,

ただ罪を負うこと,そのことによって罪と戦うこと,

これがキリスト者における律法である。
(ピレモン11,18)


新約聖書のかかる「自由」の概念は,まるで古の預言者の如きものである。

自分にのみ向けられた神の命令に従い,その神の命令によって,

目の前の隣人(国家)に対して責任を負うこと,

ここにおいて,旧約と新約は一致するのである。


わたしが悪人に向かって,「お前は必ず死ぬ」と言うとき,
もしあなたがその悪人に警告して,悪人が悪の道から離れて命を得るように諭さないなら,
悪人は自分の罪のゆえに死ぬが,彼の死の責任をあなたに問う。
(エゼキエル書3-18)


最新の画像もっと見る

コメントを投稿