主は私に仰せられた。「人の子よ。自分の足で立て」
彼が語り始めると,霊が私の中に入り,私を自分の足で立たせた。
(エゼキエル書2-1・2)
聖書において,理性(νουs:ヌース)とは如何なる意味があるのだろうか?
人間理性とは,罪の虜であり,汚れたものである(ローマ1-28)。
だが一方で,理性は善だとも言われている(ローマ7-23,11-34,コリントⅠ2-16)。
故に人間に要求されていることは,キリストの出来事に照らし合わせて,
理性的に生きよ,ということである(ローマ12-2,14-5,ピリピ4-7,コリントⅠ14-19)。
すなわち,悪を選ばずして,善を選べ,ということである。
この善を選ぶときの理性のことを,聖書では良心(συνειδησιs:スネイデーシス)と呼ぶ。
面白いことに,この良心という語の箇所に,聖霊とかキリストという語を置き換えても,
何の矛盾もないということである(ローマ2-15,9-1,コリントⅡ4-2)。
すなわち,聖書において,良心とは,神に属する語であることがわかる。
聖書において,理性とは,いわば善とか悪かの代名詞ではなく,
善にも悪にも属することのできる機能なのである。
人間は,理性によって,己の罪のために奉仕させることもできれば,
キリストの出来事に照らし合わせて,神のために奉仕することもできる。
理性とは,己の欲望を投影した罪の声でもあるし,
キリストにあって,神の声でもあるのである。
(カール・バルト「キリスト教倫理学総説Ⅱ/2」)
人間が,ただキリストを目指して,自分の理性を神の声として聞き従うこと,
これが,聖書の称する「自由」である。
人は思うかもしれない,「そんな危険なことはない」と。
「人間というものが自分の声を神の声として聞くということは,
最も恐るべき事態を引き起こす筈だ」と。
しかし,それは二つの原因によって,あり得ない。
まず第一に,キリスト者は,良心の命令を自分にしか向け得ないからである。
(コリントⅠ8-2,ローマ1-14,12-3)
普通人間は,良心の命令を,他人に向ける。
宗教信者の場合,自分の良心の命令を,神の預言として,他人に向ける。
しかしキリスト者は,自分の良心の命令,「~ねばならない」という指示・責任を,
ただ自分にのみ向けられるものとしてしか,理解できないからである。
第二に,キリスト者は,キリストの出来事に照らし合わせて,
目の前の具体的隣人を神の律法として理解する。
(ローマ15-1~3,ガラテヤ6-2)
目の前の現実を神の御心として,キリストに従うべき召命として,
自分に課せられた義務として理解する。
必ずしも正しくない人々の弱さを担うこと(βασταζω:バスタゾー),負うこと,
そのことによって,罪と戦うこと,
それがたとえ人にも神にも見捨てられているように思われても,
ただ罪を負うこと,そのことによって罪と戦うこと,
これがキリスト者における律法である。
(ピレモン11,18)
新約聖書のかかる「自由」の概念は,まるで古の預言者の如きものである。
自分にのみ向けられた神の命令に従い,その神の命令によって,
目の前の隣人(国家)に対して責任を負うこと,
ここにおいて,旧約と新約は一致するのである。
わたしが悪人に向かって,「お前は必ず死ぬ」と言うとき,
もしあなたがその悪人に警告して,悪人が悪の道から離れて命を得るように諭さないなら,
悪人は自分の罪のゆえに死ぬが,彼の死の責任をあなたに問う。
(エゼキエル書3-18)
彼が語り始めると,霊が私の中に入り,私を自分の足で立たせた。
(エゼキエル書2-1・2)
聖書において,理性(νουs:ヌース)とは如何なる意味があるのだろうか?
人間理性とは,罪の虜であり,汚れたものである(ローマ1-28)。
だが一方で,理性は善だとも言われている(ローマ7-23,11-34,コリントⅠ2-16)。
故に人間に要求されていることは,キリストの出来事に照らし合わせて,
理性的に生きよ,ということである(ローマ12-2,14-5,ピリピ4-7,コリントⅠ14-19)。
すなわち,悪を選ばずして,善を選べ,ということである。
この善を選ぶときの理性のことを,聖書では良心(συνειδησιs:スネイデーシス)と呼ぶ。
面白いことに,この良心という語の箇所に,聖霊とかキリストという語を置き換えても,
何の矛盾もないということである(ローマ2-15,9-1,コリントⅡ4-2)。
すなわち,聖書において,良心とは,神に属する語であることがわかる。
聖書において,理性とは,いわば善とか悪かの代名詞ではなく,
善にも悪にも属することのできる機能なのである。
人間は,理性によって,己の罪のために奉仕させることもできれば,
キリストの出来事に照らし合わせて,神のために奉仕することもできる。
理性とは,己の欲望を投影した罪の声でもあるし,
キリストにあって,神の声でもあるのである。
(カール・バルト「キリスト教倫理学総説Ⅱ/2」)
人間が,ただキリストを目指して,自分の理性を神の声として聞き従うこと,
これが,聖書の称する「自由」である。
人は思うかもしれない,「そんな危険なことはない」と。
「人間というものが自分の声を神の声として聞くということは,
最も恐るべき事態を引き起こす筈だ」と。
しかし,それは二つの原因によって,あり得ない。
まず第一に,キリスト者は,良心の命令を自分にしか向け得ないからである。
(コリントⅠ8-2,ローマ1-14,12-3)
普通人間は,良心の命令を,他人に向ける。
宗教信者の場合,自分の良心の命令を,神の預言として,他人に向ける。
しかしキリスト者は,自分の良心の命令,「~ねばならない」という指示・責任を,
ただ自分にのみ向けられるものとしてしか,理解できないからである。
第二に,キリスト者は,キリストの出来事に照らし合わせて,
目の前の具体的隣人を神の律法として理解する。
(ローマ15-1~3,ガラテヤ6-2)
目の前の現実を神の御心として,キリストに従うべき召命として,
自分に課せられた義務として理解する。
必ずしも正しくない人々の弱さを担うこと(βασταζω:バスタゾー),負うこと,
そのことによって,罪と戦うこと,
それがたとえ人にも神にも見捨てられているように思われても,
ただ罪を負うこと,そのことによって罪と戦うこと,
これがキリスト者における律法である。
(ピレモン11,18)
新約聖書のかかる「自由」の概念は,まるで古の預言者の如きものである。
自分にのみ向けられた神の命令に従い,その神の命令によって,
目の前の隣人(国家)に対して責任を負うこと,
ここにおいて,旧約と新約は一致するのである。
わたしが悪人に向かって,「お前は必ず死ぬ」と言うとき,
もしあなたがその悪人に警告して,悪人が悪の道から離れて命を得るように諭さないなら,
悪人は自分の罪のゆえに死ぬが,彼の死の責任をあなたに問う。
(エゼキエル書3-18)
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます