エペソ書・コロサイ書を読了する。
パウロの死後、数十年後、ここまで恐ろしくパウロの福音を理解し、
宣べ伝えようとした人間が存在したことに、改めて驚かざるを得ない。
パウロ在世当時においても、パウロはこの世の宗教と戦った。
それは律法という形で、割礼という形で、パウロが戦わねばならなかったものである。
(ガラテヤ書)
かかるパウロの対宗教戦争はパウロの死後も継続し、
今度はこの世の儀式と . . . 本文を読む
体は一つ、霊は一つです。
それは、あなた方が、一つの希望にあずかるように招かれているのと同じです。
主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ、すべてのものの父である神は唯一であって、
すべてのものの上にあり、すべてのものを通して働き、すべてのものの内におられます。
(エペソ書4-4~6/新共同訳)
聖書は神の言葉だからといって、まるで現実から宙に浮いた言葉のように読んではならない。
聖書も人間が書 . . . 本文を読む
また、わたしが適切な言葉を用いて話し、
福音の神秘を大胆に示すことができるように、
わたしのために祈ってください。
わたしはこの福音の使徒として鎖につながれていますが、
それでも、語るべきことは大胆に話せるように、祈ってください。
(エペソ書6-19・20/新共同訳)
「適切な言葉を用いて話し」と訳された部分は、全くの創作文章である。
原文は「私の口が開く時に言葉が与えられ」である。
す . . . 本文を読む
かつて中国哲学の権威・安岡正篤氏は、西洋人と東洋人の思考方法には、
決定的な違いがあると言った。
西洋人はすべて分析的にものを見るが、東洋人はすべて総合的にものを見る、と。
同様のことを、インド哲学の研究者・中村元氏も言及していたと思う。
(中村元「東洋人の思惟方法」)
私もパウロ書簡の原語研究を通して、同様の感想を持たざるをえない。
パウロはユダヤ人である、すなわち東洋人である。
そ . . . 本文を読む
平和の絆で結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい(エペソ書4-3/新共同訳)。
「絆」と訳された単語スンデスモー(συνδεσμω)とは、
縄目や足枷を意味する単語である。
「一致する」と訳された単語エノテータ(ενοτητα)とは、
人間が意識的に合同することではなく、「一つである現実」を意味する。
「保つ」と訳された単語テーレイン(τηρειν)とは、
「保つ」とも「守る . . . 本文を読む
パウロが宣べ伝えた福音は、パウロ在世当時から誤解された。
パウロの福音の真髄である「死人の復活(αναστασισ νεκρων)」は、
西洋人の祖先であるギリシャ人(アテネ人・コリント人)に誤解された。
それは、使徒行伝に記載されているアレオパゴス説教にあるように、
霊魂不滅を信じるギリシャ人にとって、
「死人の復活」という霊魂さえも罪ありとする思想(現実?)は、
何とも我慢ならない . . . 本文を読む
新約聖書、特にパウロ書簡において、
神の栄光(δοξα:ドクサ)とは何を指していたのだろうか?
まず第一に、神の栄光とは生きとし生けるものが誰もしらないものであり、
(ローマ1-23、3-20、コリントⅠ2-8)
しかもあのモーゼでさえ束の間しかその栄光に与ることができなかった代物である。
(コリントⅡ3-11)
次に、この誰も知ることのできない神の栄光とは、
イエス・キリスト御一人の . . . 本文を読む
日本語において「教会」と訳されているエクレーシア(εκκλησια)とは、
一体、いかなる意味があるのだろうか?
エクレーシアとは、神のプレーローマ(πληρωμα)だと書かれている。
(エペソ書1-23)
ならば、プレーローマとは何か?
プラトン曰く、「住民とは国家を満たすプレーローマ」だと。
(プラトン「国家」)
アリストテレス曰く、「船員とは船を満たすプレーローマ」だと。
(アリス . . . 本文を読む