キリスト者の慰め

無宗教主義の著者が、人生の苦しみに直面し、キリストによって慰めをえる記録

原罪-士師記1~10-

2008-10-25 01:35:12 | 聖書読解
イスラエルの人々は主の目に悪とされることを行い、
バアルに仕えるものとなった。(士師記2-11)



原罪説―人間には、生まれながらにして罪がある。

これ、聖書が主張する人間観である。

原罪説の神学的な論証は、暇をもてあます神学者先生に任せておくとして、

人間の実態そのものが、原罪説の良き証明である。


約束の地に入ったイスラエル人は、神に選ばれた民族として、

立派な国造りをしたかというと、決してそうではなかった。

自分達を導き出してくれた神を忘れ、偶像に仕え、悪を為した。

時々英雄が登場して、イスラエル人を正道に戻しはしたものの、

英雄死して国民はもとの反逆の民となる。

堕落して、英雄に一時的に引き上げられ、すぐさま堕落する。
(士師記2-11、3-7、3-12、4-1、6-1、8-33、10-6)

イスラエル人の歴史とは、すなわち、堕落の連続の歴史である。

信仰的英雄に一時的に引き上げられた分だけ、それだけ、

いかに堕落が恒常的状態であったかが推察できる。

聖書は神学者先生のように神学的用語を用いて説明せずして、

イスラエル人の歴史的行動をもってして、人間の何たるかを知らしめる。


そしてこれ、イスラエル人のことだけではなく、現代人のことでもある。

人間は善人だと言う人がいる。

そう主張する人は、人類初の善人中の善人かもしれぬが、

自他ともに善であると信じたいだけではないのか?

殺人者の人権さえも過度に擁護される病的な国であるから、

人間の善性を否定する発言など、気づいていてもできないのである。

なぜ年々歳々法律は増加するのに、年々歳々犯罪は増加するのか?

なぜ卑猥な話では盛り上がり易いのに、真面目な話は避けたがるのか?

なぜこれだけ教育熱心な国なのに、年を経るに従ってその痕跡も留めぬのか?

なぜ平和が叫ばれているのに、戦争はますます陰湿化し、この世に根を張るのか?

数え上げればきりがない。

原罪説は現実的に人間を観察して、最も的確な人間観なのである。

そして、かかる罪を解決するために、聖書の後の主張とキリストがある。


人間の善性を信じる者に、悪い者はいない。

みな、たいてい、良き人々である。

しかし、浅い。

浅く人間を観るから、すべてが良く見えるのである。

多分、自分の内奥を真剣に見つめたことがないから、

他人のそれも見えないのである。

外見・言葉・行為の現象の裏側には、心に巣食う罪がある。

そして罪を自覚できたときに、さらにその内奥にある

キリスト・イエスの恩恵が自覚できるのである。

光明に接するためには、一度暗黒を通過する必要がある。



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