現に多くの神々、多くの主がいると思われているように、
たとえ天や地に神々と呼ばれるものがいても、
私たちにとっては、唯一の神、父である神がおられ、
万物はこの神から出、私たちはこの神へ帰って行くのです。
また、唯一の主、イエス・キリストがおられ、万物はこの主によって存在し、
私たちもこの主によって存在しているのです。(コリント書Ⅰ8-5・6/新共同訳)
古代ギリシャ語において、αναγκη(アナンケー)という言葉がある。
これ通常「強制」と訳される言葉であって、パウロ書簡のキーワードである。
日本語において「強制」と聞けば、何やら他人から強いられる命令のように思えるが、
古代ギリシャ語の語源からすれば、大きな間違いである。
アナンケーとは、自分の意志に反する「必然性」を意味する。
すなわち、他人から強いられること、社会から強いられること、
自分以外の存在から強いられて自分が為すことは、
自分の欲求には反しているかもしれぬが、自分に及ぶ利益や快苦を比較考量して、
他者の命令を選んだということで、結局は自分の意志決定をしているのだから、
ギリシャ語的には「強制」ではない。
ギリシャ語における「強制(アナンケー)」とは、自分の意志決定が一切為されることなく、
そうでなければならないし、そうであるしか考えられない状態を指す。
だからパウロが「自分はキリストを信ぜざるを得ない」とか、
「自分は他人を愛さざるを得ない」とか、
「自分は福音を伝道せざるを得ない」とか言う時、
それは単なる峻厳な倫理的強制などというものではなく、
神の恵みのあまりの豊富さに、自分の意志に反して押し出されたような状態なのである。
かかるパウロの信仰を最も明らかに表明したものが、上記の引用である。
パウロは「この世に神々はある(εισιν:エイジン)」と言う。
εισινとは英語におけるbe動詞のようなもので、
物事の存在を意味する。
しかしパウロは真の神、イエス・キリストを表明する際には、
かかるbe動詞を一切用いずに、
直ちにεκ・δια・εισ(エク・ディア・エイス)という前置詞を記す。
εκとは、英語におけるfromのようなもので、あるものから発出することを意味する。
διαとは、英語におけるthroughのようなもので、あるものを通ることを意味する。
εισとは、英語におけるintoのようなもので、あるものに至ることを意味する。
パウロの言う意味はこうである思う。
神々というものは、人間が自分の玉座に座り、自分の罪を保持しつつ、
自分の自由意志によって選び、信じることのできる架空の存在である。
(西田幾多郎が言うところの、対象論理的な存在)
しかし真実の神、イエス・キリスト御自身は、我々の罪を裁き、赦し、
その十字架によって人間の陳腐な玉座を破壊し、
その死人の復活によって栄光に至らせる存在、
すなわち人間が余裕をもって自分の意志決定によって信じ、安心するような存在ではなく、
人をして「強制(アナンケー)」としか思われないような、圧倒的な神の恵みなのである。
(西田幾多郎が言うところの、絶対無の状態)
私は、私の信仰によって救われない。
私は、私の信仰に反して、神の恵みによって救われる。
私は、あらゆる宗教から自分で好きなものを選んで、そして信じ、
そのことによって救われるのではない。
私は、彼(イエス)を信じることしかできず、彼を信じる以外に道がなく、
しかもそれは、喜ぶべきことに神の恵みであるが故に、
「信じる以外に道がない」という神の恵みの結果に、
感謝して「アーメン」を唱えるのである。
パウロがキリストの恵みを語る際に、なぜbe動詞を入れなかったのか、
そのことを人は深く考慮すべきだと思う。
たとえ天や地に神々と呼ばれるものがいても、
私たちにとっては、唯一の神、父である神がおられ、
万物はこの神から出、私たちはこの神へ帰って行くのです。
また、唯一の主、イエス・キリストがおられ、万物はこの主によって存在し、
私たちもこの主によって存在しているのです。(コリント書Ⅰ8-5・6/新共同訳)
古代ギリシャ語において、αναγκη(アナンケー)という言葉がある。
これ通常「強制」と訳される言葉であって、パウロ書簡のキーワードである。
日本語において「強制」と聞けば、何やら他人から強いられる命令のように思えるが、
古代ギリシャ語の語源からすれば、大きな間違いである。
アナンケーとは、自分の意志に反する「必然性」を意味する。
すなわち、他人から強いられること、社会から強いられること、
自分以外の存在から強いられて自分が為すことは、
自分の欲求には反しているかもしれぬが、自分に及ぶ利益や快苦を比較考量して、
他者の命令を選んだということで、結局は自分の意志決定をしているのだから、
ギリシャ語的には「強制」ではない。
ギリシャ語における「強制(アナンケー)」とは、自分の意志決定が一切為されることなく、
そうでなければならないし、そうであるしか考えられない状態を指す。
だからパウロが「自分はキリストを信ぜざるを得ない」とか、
「自分は他人を愛さざるを得ない」とか、
「自分は福音を伝道せざるを得ない」とか言う時、
それは単なる峻厳な倫理的強制などというものではなく、
神の恵みのあまりの豊富さに、自分の意志に反して押し出されたような状態なのである。
かかるパウロの信仰を最も明らかに表明したものが、上記の引用である。
パウロは「この世に神々はある(εισιν:エイジン)」と言う。
εισινとは英語におけるbe動詞のようなもので、
物事の存在を意味する。
しかしパウロは真の神、イエス・キリストを表明する際には、
かかるbe動詞を一切用いずに、
直ちにεκ・δια・εισ(エク・ディア・エイス)という前置詞を記す。
εκとは、英語におけるfromのようなもので、あるものから発出することを意味する。
διαとは、英語におけるthroughのようなもので、あるものを通ることを意味する。
εισとは、英語におけるintoのようなもので、あるものに至ることを意味する。
パウロの言う意味はこうである思う。
神々というものは、人間が自分の玉座に座り、自分の罪を保持しつつ、
自分の自由意志によって選び、信じることのできる架空の存在である。
(西田幾多郎が言うところの、対象論理的な存在)
しかし真実の神、イエス・キリスト御自身は、我々の罪を裁き、赦し、
その十字架によって人間の陳腐な玉座を破壊し、
その死人の復活によって栄光に至らせる存在、
すなわち人間が余裕をもって自分の意志決定によって信じ、安心するような存在ではなく、
人をして「強制(アナンケー)」としか思われないような、圧倒的な神の恵みなのである。
(西田幾多郎が言うところの、絶対無の状態)
私は、私の信仰によって救われない。
私は、私の信仰に反して、神の恵みによって救われる。
私は、あらゆる宗教から自分で好きなものを選んで、そして信じ、
そのことによって救われるのではない。
私は、彼(イエス)を信じることしかできず、彼を信じる以外に道がなく、
しかもそれは、喜ぶべきことに神の恵みであるが故に、
「信じる以外に道がない」という神の恵みの結果に、
感謝して「アーメン」を唱えるのである。
パウロがキリストの恵みを語る際に、なぜbe動詞を入れなかったのか、
そのことを人は深く考慮すべきだと思う。