キリスト者の慰め

無宗教主義の著者が、人生の苦しみに直面し、キリストによって慰めをえる記録

神の恵みを思え!

2011-02-25 19:52:55 | 聖書原典研究(パウロ書簡)
互いにこのことを心がけなさい。
それはキリスト・イエスにもみられるものです。
(ピリピ書2-5/新共同訳)



原文を正しく訳せば,

「あなた方の間では,キリスト・イエスにある出来事こそ思え」である。

この箇所において注意すべきは,「思え」と訳したフロノー(Φρονω)という語である。

これ,日本語でいう,単に「考える」とか「思う」とか以上の言葉である。

もちろん,ギリシャ語辞典で調べれば,「思う,考える」という訳が記載されている。

しかし,この言葉を語った使徒パウロが,如何なる意味でこの語を使用しているのか,

という洞察は反映されていない。


パウロという人は,当時のギリシャ文化を徹底的に叩き込まれた教養人である。

故に,ギリシャ哲学・文学の影響を,多大に受けていることは言うまでもない。

現に,ガラテヤ書とプラトンの「ソクラテスの弁明」,ローマ書とプラトンの「国家」,

コリント書Ⅰの一部分とプラトンのイデア論の関係性は,顕著である。

故に,パウロの語の使用の,深い深い意味を探るために,

当時のギリシャ文化における言葉の意味を明らかにする必要がある。


フロノー(Φρονω)とは,単に思いついたままに考えるということではなく,

目標・究極(テロス:τελοσ)から自己吟味することを意味する。

人生の目標(τελοσ)を自分で設定することではない。目標は既に与えられたものとして,

その目標に照らして,追思考的に自分の行動を検討することを意味する。
(アリストテレス「エウデモス倫理学」2巻11章)

イエスが来臨し,すべての人を新しく造り変えるという目標,

死人の復活という目標,完全に救われイエスの如くなるという目標に照らして,

自分の生は如何なるものであるか,という自己吟味である。


お前の現在の生は,キリスト・イエスの恵みに対して,

如何なるものであるのか?

まるで死人の復活がないかのように,まるでイエスの約束(来臨)はないかのように,

この世の生を独りよがりに過ごしてはいないか?

まるで神の国は既に来たかのように,目の前の現実を楽園そのものだと勘違いし,

「ああ,俺はもう既に恵みにあって安心である!」と自分で自分を納得させ,

ただ夢想に耽ることをもって神の恩恵だと勘違いしてはいないか?

自分に都合の悪い隣人の存在を神の裁きであると断罪し,

自分に都合のいいことだけは神の愛だと感謝し,

そうして,この世の罪の有様,自分の罪の生涯の有様をそのままにして,

大したことのない欲求の断念をもって,自己犠牲だとのたまって,

生を楽しみ,遊び,謳歌することをもって,神の恵みだと勘違いしてはいないか?


お前の称する愛とは,キリスト・イエスの愛に比べて,

如何なるものであるか?お前がいう愛とは,果たして愛であるのか?

まるで役人が事務的に物事をさばくように,愛しているような演技をして,

表面的には親切で人を愛しているように見えながら,

実は隣人を適当にさばき,処理し,厄介な隣人を遠ざけているだけではないのか?

イエスは罪と戦うために,隣人の罪を負った。

これが,罪と戦うということである。

罪は,指摘し,裁き,嫌悪するということによって,戦うのではない。

ただ,「代わりに負う」ということによって,ダメージを与えることができるのである。

お前は,隣人の罪を負っているか?

内心,隣人の罪を嘲り,断罪し,自分の比較的な善性を楽しんでいるだけではないのか?

同じ罪人として隣人の苦しみに共感し,ただイエスを目の前において彼の罪を負い,

そして,自分は他人の罪ばかりか自分の罪さえ負えないという事実に,

ただただイエス・キリストにあって,赦し合う生を生きているのか?


パウロの抱いた死人の復活という目標(コリント書Ⅰ15章),

パウロの痛感したキリスト者の現在の生(コリント書Ⅰ13章),

このようなパウロの主張に照らし合わせれば,以上のような自己吟味が,

このたった一語のフロノー(Φρονω)に込められているのである。


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