キリスト者の慰め

無宗教主義の著者が、人生の苦しみに直面し、キリストによって慰めをえる記録

神を反映せよ!

2011-08-28 20:07:17 | 聖書原典研究(パウロ書簡)
自分の体で,神の栄光を現しなさい。(コリントⅠ6-20/新共同訳)



「栄光を現しなさい」と訳されている単語δοξαω(ドクサゾー)とは,

本来,光輝(δοξα:ドクサ)という単語の動詞形であって,

「光を反映する」という意味から,栄光を帰するとか,

崇めるとかという意味が出てきた。

であるから,単語の本来的意味を考慮すれば,下記のようにも訳せるのである。


自分の体をもって,神を反映せよ。(コリントⅠ6-20/私訳)


パウロは度々,この世におけるキリスト者の生涯を,

キリストを見つめつつ姿を変えられる鏡の比喩をもって語っている。
(コリントⅡ3-18など)

しかも,同じコリント人に語っている書簡であれば,

「神を反映せよ」と訳すべきだと,私は思う。


ならば,神を反映すること,神の栄光を顕現するとは,

何を意味するかが問題となる。


ちょうどキリストもあなた方を受け入れたように,
あなた方も神の栄光のために互いに受け入れよ。(ローマ15-7/私訳)


神を反映するとは,キリストが罪人である自分を受け入れたように,

必ずしも正しくない人々,自分にとって厄介な人々を受け入れることである。

パウロにとって福音とは,ただただイエスに縋って救われることでもあるし,

そうであるからこそ,イエスのために自分の願望に反して,

自分に鞭打ち,自分を強いて,愛することさえできない人々を受け入れることでもある。
(ピリピ3-12以下を参照)

すなわち,「あなたはもう救われている(直説法)」も福音の一側面であれば,

「あなたは救われるために為せ(命令法)」も福音の一側面なのである。


新約聖書学者である田川建三氏によれば,

パウロの特愛の言葉である「キリストにあって」の「あって(εν)」とは,

英語の「in」に該当するものではあるが,

「~の内に」という意味に解釈すべきものではなく,

「~の支配に」と訳すべき可能性が否定できないという。
(古代法制史家A・リュストフの説)

すなわち,「私の中にいるキリスト」とか「キリストに埋没している私」とか,

そのような空間的表象・神秘主義的傾向に訳すべきではなく,

十字架の贖罪と死人の復活の中間に位置する存在,

キリストに過去の罪を免除され,キリストに新しく造りかえられる状態においてという,

時間的表象・現実主義的方向に訳すべきだということである。

私も,このリュストフの意見には賛成である。


パウロはユダヤ人であってギリシャ人ではない。

空間的思考よりも時間的思考の方が優勢であることは,ユダヤ人の特徴である。

また,空間的方向に解して,人は今ありのままの自分が,既に救われた存在であると信じ,

パウロの直説法だけ聞いて命令法は聞かず,命令法は律法であって福音ではないと誤想し,

最も唾棄すべき福音的生涯を送るようになるのである。

過去の罪を免除され,将来キリストに造りかえられる存在であるからこそ,

我々は,「キリストの如く生きよ!」との命令法を,感謝をもって聞くのである。


「我々は究極において我々に有益であるかそれとも有害であるかという見通しに関する
表象を持つことによって,我々の感性的欲求能力に対する直接の印象を克服し得る」
(カント「純粋理性批判」)



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