キリスト者の慰め

無宗教主義の著者が、人生の苦しみに直面し、キリストによって慰めをえる記録

失われた家族-ルツ記1~4-

2008-10-29 01:54:53 | 聖書読解
わたしは、あなたの行かれる所に行き、お泊まりになる所に泊まります。
あなたの民はわたしの民、あなたの神はわたしの神。
あなたの亡くなる所でわたしも死に、そこに葬られたいのです。
死んでお別れするのならともかく、その他のことであなたを離れるようなことをしたなら、
主よ、どうかわたしを幾重にも罰してください。
(ルツ記1-16・17)



成熟化した社会は、二つの道を選択せねばならない。

福祉を国家の側が責任を持つか、それとも、国民の側が責任を持つか。

国家が福祉を担って安全を保障する、これ北欧の道である。

国民が自分自身で福祉をも安全をも確保する、これ米国の道である。

そして残念なことに、その両者とも、結果的には国民の福祉確保に失敗した。

なぜ失敗したのかというと、どんな制度を選んだのであれ、

最も肝心な「家族」という実体が社会から崩壊したからだ。


政府が国民の福祉に責任を持つ、その思想は良し。

国民が自分の福祉に責任を持つ、その思想は良し。

しかし、選択する手段がどんなに立派であれ、

社会組織の土台である家族が崩壊して、

すべての制度が有名無実化せざるを得ない。

たとえ住むべき家(house)はあっても、たとえ家族の頭数(family)があっても、

そこに家族相互を結びつける絆(home)がなければ、国家の福祉は崩壊する。


ルツ記はたった4章の小さな書である。

イザヤ書の66章、マタイ伝の28章と比べれば、取るに足りない書である。

しかし家族の絆を説いたもので、ルツ記ほど読む価値のある書はない。

ルツは異邦モアブの夫人で、夫が死んでから、姑のナオミとともに、

姑の故郷に一緒に行き(ルツにとっては異国である)、姑を支えて暮らした。

あまりの貧乏さに生活は困窮したが、親戚のボアズがそれを憐れんで厚意を示し、

最後には幸せに暮らした、というような物語である。

ナオミとルツとボアズ、この三者の態度の中に、

家族の本質が垣間見える。


姑のナオミは嫁のルツに、自由に生き、他の男と一緒になることを望んだ。
(ルツ記1-8・9)

嫁のルツは姑のナオミに、共に生き、共に暮らすことを望んだ。
(ルツ記1-16・17)

現代人の嫁と姑の心境は、ちょうど正反対であるのと対照的である。

親戚のボアズはナオミとルツに、安心して暮らすだけの経済的援助をした。
(ルツ記2-8・9)

そういうルツは親戚のボアズに対し、恐れかしこんでそれを受けた。
(ルツ記2-10)

親戚同士が金銭問題で訴訟沙汰になる現代人と、ちょうど正反対である。

姑は嫁の幸福を望み、嫁は姑の幸福を望み、親戚は嫁と姑の幸福を望む。

かかる相互の愛情が、真の家族を作り、社会の土台を作るのである。


自由を愛する資本主義も、安心を愛する社会主義も、

そのどちらも、家族を崩壊させたという意味で共通である。

それも当然の話である。

資本主義も社会主義も、それら両者の中間の主義も、

近代の無神論という根によって生えた果実である。
(H・アレント「カール・マルクスと西欧政治思想の伝統」)

神と断絶して愛念が断たれ、愛念が断たれて家族を失い、

家族が失われて社会がその土台を失う。

日本も世界も、今後ますます、家族の喪失による決定的な打撃を経験するだろう。



人気blogランキングへ

最新の画像もっと見る

コメントを投稿