そこでイエスはお尋ねになった。「それでは、あなた方はわたしを何者だと言うのか」
ペテロが答えた。「あなたは、メシアです」
するとイエスは、御自分のことを誰にも話さないように弟子たちを戒められた。
(マルコ伝8-29・30/新共同訳)
神学論争において、「メシアの秘密」という問題がある(ヴレーデ)。
それは、最古の福音書であるマルコ伝において、
なぜイエスは、自分をメシアだと言わないように命じたのか?、というものだ。
現に、ペテロがイエスをメシアだと告白した時、イエスは激しく咎めている。
「戒める」と訳された単語επιτιμαωとは、
悪霊に沈黙を命じたときに用いられている表現である(マルコ1-25)。
確かにイエスは、自分をメシアだと吹聴することを(λεγετε)、
厳しく叱責しているのである。
それは、なぜか?
それを解く鍵は、この言葉の後に続く、イエスの「人の子」の説明にある。
それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、
長老・祭司長・律法学者たちから排斥されて殺され、
三日の後に復活することになっていると、弟子たちに教え始められた。
(マルコ伝8-31/新共同訳)
マルコ伝において、イエスは自分をメシアだとは言っていない。
神の子だとも言っていない。
自分を高めるような、あらゆる特別な表現をしてない。
このイエスの謙虚さが、いかなるものかを知るために、
当時のユダヤの状況を確認する必要がある。
旧約聖書で約束されたメシア待望(ダニエル書7-13・14)が、当時のユダヤでは盛んだった。
それ故に、自分を約束されたメシアだと自称し、民衆を惑わす者が多く現れた。
(マルコ伝13-21・22)
自分は奇跡を起こせるし、自分は異教徒からユダヤ人を解放することができるし、
自分は圧倒的な力によって理想国を実現できる。
そういう輩が、当時の歴史記録によると、多く現れていたという。
だから弟子たちも、イエスこそ、そういう人物だと期待したのである。
しかしイエスは言う、メシア云々を議論することは意味がない、と。
イエスの「人の子」の説明において特徴的なのは、
メシアというものは、あなた方の想像するような圧倒的な力によって来るのではなく、
苦しみ嘆き死ぬことによって来る、と主張したことだ。
すなわち、当時のユダヤ人が期待していたダニエル書の「全能のメシア」とは、
イザヤ書の「苦難の僕」と同一の方である、と主張したことにある。
(シュヴァイツァー「神の国とキリスト教」)
あなた方が想像するような全能のメシアとは、一種の幻想である。
あなた方の罪の故に、メシアは大いなる苦難を経験せねばならない。
メシアに関して議論することも、神学論争することも、無駄だ。
わたしはあなた方のために十字架に上る、あなた方も悩める人々のために十字架を負え。
(マルコ伝9-1、10-15、10-39、14-41)
それが神の御心である!、と。
イエスがなぜ、自分をメシアを言わなかったか?
それは、目の前の人間の罪、憐れな人間の姿のために、
あらゆる神学論争を無駄だと感じたからだ。
何も、禅僧のように、特殊な悟りを保持したいがためではない。
ペテロが答えた。「あなたは、メシアです」
するとイエスは、御自分のことを誰にも話さないように弟子たちを戒められた。
(マルコ伝8-29・30/新共同訳)
神学論争において、「メシアの秘密」という問題がある(ヴレーデ)。
それは、最古の福音書であるマルコ伝において、
なぜイエスは、自分をメシアだと言わないように命じたのか?、というものだ。
現に、ペテロがイエスをメシアだと告白した時、イエスは激しく咎めている。
「戒める」と訳された単語επιτιμαωとは、
悪霊に沈黙を命じたときに用いられている表現である(マルコ1-25)。
確かにイエスは、自分をメシアだと吹聴することを(λεγετε)、
厳しく叱責しているのである。
それは、なぜか?
それを解く鍵は、この言葉の後に続く、イエスの「人の子」の説明にある。
それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、
長老・祭司長・律法学者たちから排斥されて殺され、
三日の後に復活することになっていると、弟子たちに教え始められた。
(マルコ伝8-31/新共同訳)
マルコ伝において、イエスは自分をメシアだとは言っていない。
神の子だとも言っていない。
自分を高めるような、あらゆる特別な表現をしてない。
このイエスの謙虚さが、いかなるものかを知るために、
当時のユダヤの状況を確認する必要がある。
旧約聖書で約束されたメシア待望(ダニエル書7-13・14)が、当時のユダヤでは盛んだった。
それ故に、自分を約束されたメシアだと自称し、民衆を惑わす者が多く現れた。
(マルコ伝13-21・22)
自分は奇跡を起こせるし、自分は異教徒からユダヤ人を解放することができるし、
自分は圧倒的な力によって理想国を実現できる。
そういう輩が、当時の歴史記録によると、多く現れていたという。
だから弟子たちも、イエスこそ、そういう人物だと期待したのである。
しかしイエスは言う、メシア云々を議論することは意味がない、と。
イエスの「人の子」の説明において特徴的なのは、
メシアというものは、あなた方の想像するような圧倒的な力によって来るのではなく、
苦しみ嘆き死ぬことによって来る、と主張したことだ。
すなわち、当時のユダヤ人が期待していたダニエル書の「全能のメシア」とは、
イザヤ書の「苦難の僕」と同一の方である、と主張したことにある。
(シュヴァイツァー「神の国とキリスト教」)
あなた方が想像するような全能のメシアとは、一種の幻想である。
あなた方の罪の故に、メシアは大いなる苦難を経験せねばならない。
メシアに関して議論することも、神学論争することも、無駄だ。
わたしはあなた方のために十字架に上る、あなた方も悩める人々のために十字架を負え。
(マルコ伝9-1、10-15、10-39、14-41)
それが神の御心である!、と。
イエスがなぜ、自分をメシアを言わなかったか?
それは、目の前の人間の罪、憐れな人間の姿のために、
あらゆる神学論争を無駄だと感じたからだ。
何も、禅僧のように、特殊な悟りを保持したいがためではない。
イエスが、自分がメシアであることを人に言わないようにと沈黙命令を告げた理由ですが、ダニエル書に書かれている全能のメシアだと誤解され、神学論争にならないためであるとのことでした。
ところで当時のユダヤには、ダビデ王の系統から政治的メシアが出て、ローマ帝国による支配からユダヤ人を解放してくれる…といった待望があったようですね。そんな説もききます。この政治的メシアはダニエル書で雲に乗ってやってくる全能のメシアとは違うのでしょう?イエスはその政治的メシアと誤解されたくなかったから、メシア秘密を命じたのでしょうか?イエス自身、たしかにメシアではあるが、それは政治的メシアでもなければ、ダニエル書でいわれているような黙示的メシアでもなく、イザヤの言う苦難の僕としてのメシアであると…、十字架刑で死ぬ時まで沈黙することによって、人々に自分がそういうメシアであることを伝えたかったのでしょうか?