使徒パウロにとって、聖霊とは何だったのだろうか?
まず第一に、聖霊とは啓示である。(コリントⅠ2-10・11、コリントⅡ3-3)
啓示であると言えば、何か一瞬の奇跡的出来事だと思いがちだが、
パウロにとって聖霊とは、継続的何かである。(ガラテヤ3-2、コリントⅠ6-11、12-3)
つまるところ、パウロにとって聖霊とは、神であり、キリストである。(ローマ8-9)
この継続的啓示は、雲や煙の如くいつか消え失せる何か神秘的な存在なのではなく、
人間に何事かを為さしめる力である。(ローマ12-11、テサロニケⅠ5-19)
何を為さしめるのか?
まず第一に、死人の復活、将来の徹底的救済を為さしめる力である。
(ローマ8-11、コリントⅠ15-44、ガラテヤ5-5、6-8)
しかもその希望を人間に抱かせるのも、聖霊の力である。(ローマ8-22・23、26、15-13)
第二に、人類は神の愛の対象であるという意味で一体であり、
かかる神の愛の対象である「教会」を認識せしめる力である。
(コリントⅠ3-9、16、ローマ12-1~8)
そしてこのような聖霊の力は、人間を具体的生に駆り立てる。
(コリントⅠ6-19・20、12-4~11、13)
人間を、倫理的な思いに駆り立てる。(ローマ8-5・6)
いや、思いだけではなく、行動にも駆り立てる。(ローマ3-29、7-14、ガラテヤ5-22)
しかもその行動とは、一時的な行動ではなく、人間の全生活を規定するものである。
(ガラテヤ5-16、25、ローマ8-2、テサロニケⅠ4-7・8)
その行動とは、一言で言えば、愛だ。(ガラテヤ5-6)
すなわち、キリストのように生きることだ。
(ガラテヤ6-1・2、コリントⅡ12-18、ローマ14-15、ピリピ1-29)
結果的に言えば、聖霊の感化とは、人間がイエス・キリストに服従することである。
(テサロニケⅠ1-6、ローマ8-14・15、ガラテヤ4-6)
なぜ、パウロが、信仰を称して服従(υπακοη)と言ったのか?(ローマ1-5、15-18)
なぜ、パウロが、自分を称してキリストの奴隷(δουλοσ)と言ったのか?(ローマ1-1)
なぜ、パウロの後継者であるコロサイ・エペソ書著者が、
世を覆う教会論と模範としてのイエスを強調したのか?
(コロサイ1-18~20、3-13、エペソ3-18、5-2)
なぜ、新約聖書の文書が後代になるに従って、
閉鎖的な教会論に対する反発と、
イエスに従うことの重要性をより強調するようになったのか?
(パウロ文書→マルコ→ルカ→ヨハネ→マタイ)
それらを考え合わせるとき、福音の帰結、聖霊論の本質とは、
イエス・キリストに文字通り従う生であること、
すなわち、神なき世において神と共に生きる生、
如何に彼が死んだかではなく、如何に我々が生きねばならないかが、
聖書のメッセージの本質であることがわかる。
まず第一に、聖霊とは啓示である。(コリントⅠ2-10・11、コリントⅡ3-3)
啓示であると言えば、何か一瞬の奇跡的出来事だと思いがちだが、
パウロにとって聖霊とは、継続的何かである。(ガラテヤ3-2、コリントⅠ6-11、12-3)
つまるところ、パウロにとって聖霊とは、神であり、キリストである。(ローマ8-9)
この継続的啓示は、雲や煙の如くいつか消え失せる何か神秘的な存在なのではなく、
人間に何事かを為さしめる力である。(ローマ12-11、テサロニケⅠ5-19)
何を為さしめるのか?
まず第一に、死人の復活、将来の徹底的救済を為さしめる力である。
(ローマ8-11、コリントⅠ15-44、ガラテヤ5-5、6-8)
しかもその希望を人間に抱かせるのも、聖霊の力である。(ローマ8-22・23、26、15-13)
第二に、人類は神の愛の対象であるという意味で一体であり、
かかる神の愛の対象である「教会」を認識せしめる力である。
(コリントⅠ3-9、16、ローマ12-1~8)
そしてこのような聖霊の力は、人間を具体的生に駆り立てる。
(コリントⅠ6-19・20、12-4~11、13)
人間を、倫理的な思いに駆り立てる。(ローマ8-5・6)
いや、思いだけではなく、行動にも駆り立てる。(ローマ3-29、7-14、ガラテヤ5-22)
しかもその行動とは、一時的な行動ではなく、人間の全生活を規定するものである。
(ガラテヤ5-16、25、ローマ8-2、テサロニケⅠ4-7・8)
その行動とは、一言で言えば、愛だ。(ガラテヤ5-6)
すなわち、キリストのように生きることだ。
(ガラテヤ6-1・2、コリントⅡ12-18、ローマ14-15、ピリピ1-29)
結果的に言えば、聖霊の感化とは、人間がイエス・キリストに服従することである。
(テサロニケⅠ1-6、ローマ8-14・15、ガラテヤ4-6)
なぜ、パウロが、信仰を称して服従(υπακοη)と言ったのか?(ローマ1-5、15-18)
なぜ、パウロが、自分を称してキリストの奴隷(δουλοσ)と言ったのか?(ローマ1-1)
なぜ、パウロの後継者であるコロサイ・エペソ書著者が、
世を覆う教会論と模範としてのイエスを強調したのか?
(コロサイ1-18~20、3-13、エペソ3-18、5-2)
なぜ、新約聖書の文書が後代になるに従って、
閉鎖的な教会論に対する反発と、
イエスに従うことの重要性をより強調するようになったのか?
(パウロ文書→マルコ→ルカ→ヨハネ→マタイ)
それらを考え合わせるとき、福音の帰結、聖霊論の本質とは、
イエス・キリストに文字通り従う生であること、
すなわち、神なき世において神と共に生きる生、
如何に彼が死んだかではなく、如何に我々が生きねばならないかが、
聖書のメッセージの本質であることがわかる。
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