マルコ伝を読了し、今度はマタイ伝を読解しつつある。
今日はマルコ伝読解において、気づいたことを一つ。
我々は通常、何らかの先入観をもって福音書を読んでいるものだ。
たとえば、マルコはペテロの弟子だったとか、マルコは事実を重んじる人だとか。
そして、かかる諸前提から、福音書の言葉を理解しようとする。
だが、我々が当然だと思っている事柄は、たいてい何の根拠もない。
マルコはペテロの通訳だ . . . 本文を読む
原典にてマルコ伝を15章まで読了した。
あと2、3日あれば、読了することになる。
5月の半ばから始めたマルコ伝研究であるから、
実に2ヶ月かかったことになる。
毎日毎日、夜な夜なわけのわからんギリシャ語を見つめて、
たいていは意味が不明瞭のまま終わるのであるから、
我ながら頑張ったものだ。
聖書を研究することは、実に至難の業である。
コイネーギリシャ語の文法を一旦学び、
辞典を . . . 本文を読む
あなた方は私たちに倣う者、また主にも倣う者となった。
(テサロニケ書Ⅰ1-6/新共同訳)
人間というものは、自分の崇拝しているものを、
客観的に観れなくなる性質があるようだ。
たとえば、金。
金を崇拝し、金を求める人間にとって、
一万円札は、何か特別の価値が付随しているように感じる。
しかし一万円札は、紙とインクでできているもの。
そのもの自体に価値はない。
その価値を生み出し . . . 本文を読む