キリスト者の慰め

無宗教主義の著者が、人生の苦しみに直面し、キリストによって慰めをえる記録

ヘブル書著者の時間観念~永遠の今~

2011-12-04 18:48:56 | 聖書原典研究(ヘブル書・黙示録)
あなた方のうち誰一人,罪に惑わされて頑なにならないように,
「今日」という日のうちに,日々励まし合いなさい。
(ヘブル書3-13/新共同訳)



四福音書の総合的研究と共に,ヘブル書を11章まで読了する。

その中で,気づいたことを一つ。


ヘブル書を読んでいて,この著者の時間観念に非常な違和感を感じる。

例えば,以下の文言。


神はその長子をこの世界に送るとき,
「神の天使たちは皆,彼を礼拝せよ」と言われました。
(ヘブル書1-6/新共同訳)


この聖句が発せられた詩篇の時代と,

イエスの時代は,明らかに違う時代のものである。

それをヘブル書著者は,まるで過去に言われたことが

イエス自身に対して言ったかのように考えている。
(まるでこの人にとって,過去は存在しないかのように・・・)

旧約の文言をイエスの予言として解釈した新約文書著者は多いが,

旧約の文言が直接イエスに対して言われたと解釈するのは,非常に珍しい。

また,以下の文言。


イエス・キリストは昨日も今日も,永遠に変わることのない方です。
(ヘブル書13-8/新共同訳)


「昨日も今日も明日も」と,この人は言わない。

なぜか,明日がない。

まるでこの人にとって,明日という概念がないかのように・・・。

そして,この文言に呼応するように,ヘブル書全体を通して,

終末のスケジュールに関する論述がない。
(コリント書Ⅰにあるパウロの終末論や,福音書にあるような終末のしるしなど)

まだまだ,多くの不可解な点があるが,それらは全て「時間」に関するものである。


私は思う,この人にとって過去も未来もない,と。

過去は現在の記憶として,未来は現在の予想として,
(西田幾多郎「永遠の今の自己限定」)

あらゆる過去の事績や未来の約束が,「今」における決断に押し寄せている。

故に,「今日,あなた方が神の声を聞くなら,心を頑なにしてはならない」という,

ダビデに発せられた言葉も(3-7・8),今己に向けられたものとして聞き,

アベルもノアもアブラハムもモーゼも士師も預言者も,

己の信仰的生涯の模範として記述されているのである(11章)。


一粒の砂に一つの世界を見,一輪の野の花に一つの天国を見,
掌に無限を乗せ,一時のうちに永遠を感じる。
(ウィリアム・ブレイク)


この「今」は,イエスに従うか否かを問われている,永遠の今である。

この「今」によって,過去の事績も未来の約束も,そのいろどりを変える。

大祭司イエスに向かって,進むのか?それとも,退くのか?(10-18)

目に見えるこの世の現実に従うか,未だ見ぬイエスの約束を望むか?(11-1)

この世の報酬を目指して生きるのか,神が報い給う遺産を待って生きるのか?(11-1)

ということが,この文書全体を通して問われているのである。


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