あなた方のうち誰一人,罪に惑わされて頑なにならないように,
「今日」という日のうちに,日々励まし合いなさい。
(ヘブル書3-13/新共同訳)
四福音書の総合的研究と共に,ヘブル書を11章まで読了する。
その中で,気づいたことを一つ。
ヘブル書を読んでいて,この著者の時間観念に非常な違和感を感じる。
例えば,以下の文言。
神はその長子をこの世界に送るとき,
「神の天使たちは皆,彼を礼拝せよ」と言われました。
(ヘブル書1-6/新共同訳)
この聖句が発せられた詩篇の時代と,
イエスの時代は,明らかに違う時代のものである。
それをヘブル書著者は,まるで過去に言われたことが
イエス自身に対して言ったかのように考えている。
(まるでこの人にとって,過去は存在しないかのように・・・)
旧約の文言をイエスの予言として解釈した新約文書著者は多いが,
旧約の文言が直接イエスに対して言われたと解釈するのは,非常に珍しい。
また,以下の文言。
イエス・キリストは昨日も今日も,永遠に変わることのない方です。
(ヘブル書13-8/新共同訳)
「昨日も今日も明日も」と,この人は言わない。
なぜか,明日がない。
まるでこの人にとって,明日という概念がないかのように・・・。
そして,この文言に呼応するように,ヘブル書全体を通して,
終末のスケジュールに関する論述がない。
(コリント書Ⅰにあるパウロの終末論や,福音書にあるような終末のしるしなど)
まだまだ,多くの不可解な点があるが,それらは全て「時間」に関するものである。
私は思う,この人にとって過去も未来もない,と。
過去は現在の記憶として,未来は現在の予想として,
(西田幾多郎「永遠の今の自己限定」)
あらゆる過去の事績や未来の約束が,「今」における決断に押し寄せている。
故に,「今日,あなた方が神の声を聞くなら,心を頑なにしてはならない」という,
ダビデに発せられた言葉も(3-7・8),今己に向けられたものとして聞き,
アベルもノアもアブラハムもモーゼも士師も預言者も,
己の信仰的生涯の模範として記述されているのである(11章)。
一粒の砂に一つの世界を見,一輪の野の花に一つの天国を見,
掌に無限を乗せ,一時のうちに永遠を感じる。
(ウィリアム・ブレイク)
この「今」は,イエスに従うか否かを問われている,永遠の今である。
この「今」によって,過去の事績も未来の約束も,そのいろどりを変える。
大祭司イエスに向かって,進むのか?それとも,退くのか?(10-18)
目に見えるこの世の現実に従うか,未だ見ぬイエスの約束を望むか?(11-1)
この世の報酬を目指して生きるのか,神が報い給う遺産を待って生きるのか?(11-1)
ということが,この文書全体を通して問われているのである。
「今日」という日のうちに,日々励まし合いなさい。
(ヘブル書3-13/新共同訳)
四福音書の総合的研究と共に,ヘブル書を11章まで読了する。
その中で,気づいたことを一つ。
ヘブル書を読んでいて,この著者の時間観念に非常な違和感を感じる。
例えば,以下の文言。
神はその長子をこの世界に送るとき,
「神の天使たちは皆,彼を礼拝せよ」と言われました。
(ヘブル書1-6/新共同訳)
この聖句が発せられた詩篇の時代と,
イエスの時代は,明らかに違う時代のものである。
それをヘブル書著者は,まるで過去に言われたことが
イエス自身に対して言ったかのように考えている。
(まるでこの人にとって,過去は存在しないかのように・・・)
旧約の文言をイエスの予言として解釈した新約文書著者は多いが,
旧約の文言が直接イエスに対して言われたと解釈するのは,非常に珍しい。
また,以下の文言。
イエス・キリストは昨日も今日も,永遠に変わることのない方です。
(ヘブル書13-8/新共同訳)
「昨日も今日も明日も」と,この人は言わない。
なぜか,明日がない。
まるでこの人にとって,明日という概念がないかのように・・・。
そして,この文言に呼応するように,ヘブル書全体を通して,
終末のスケジュールに関する論述がない。
(コリント書Ⅰにあるパウロの終末論や,福音書にあるような終末のしるしなど)
まだまだ,多くの不可解な点があるが,それらは全て「時間」に関するものである。
私は思う,この人にとって過去も未来もない,と。
過去は現在の記憶として,未来は現在の予想として,
(西田幾多郎「永遠の今の自己限定」)
あらゆる過去の事績や未来の約束が,「今」における決断に押し寄せている。
故に,「今日,あなた方が神の声を聞くなら,心を頑なにしてはならない」という,
ダビデに発せられた言葉も(3-7・8),今己に向けられたものとして聞き,
アベルもノアもアブラハムもモーゼも士師も預言者も,
己の信仰的生涯の模範として記述されているのである(11章)。
一粒の砂に一つの世界を見,一輪の野の花に一つの天国を見,
掌に無限を乗せ,一時のうちに永遠を感じる。
(ウィリアム・ブレイク)
この「今」は,イエスに従うか否かを問われている,永遠の今である。
この「今」によって,過去の事績も未来の約束も,そのいろどりを変える。
大祭司イエスに向かって,進むのか?それとも,退くのか?(10-18)
目に見えるこの世の現実に従うか,未だ見ぬイエスの約束を望むか?(11-1)
この世の報酬を目指して生きるのか,神が報い給う遺産を待って生きるのか?(11-1)
ということが,この文書全体を通して問われているのである。
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