もし主に仕えたくないというならば、
川の向こう側にいたあなたたちの先祖が仕えていた神々でも、
あるいは今、あなたたちが住んでいる土地のアモリ人の神々でも、
仕えたいと思うものを、今日、自分で選びなさい。
ただし、わたしとわたしの家は主に仕えます。(ヨシュア記24-15)
人間は社会的動物であれば、他人と一致共同として生きねばならし、
是非とも周囲と和合すべきである。
しかし一致共同ばかりがいい訳ではない。
時には、涙を偲んで分離することも必要である。
もちろん、分離だって必ずしも良い訳ではない。
自分の信念に熱中するあまり、周囲の気持ちが見えなくなり、
右に左に噛み付いて、分離分裂を促進するのはよろしくない。
そういう人間は、確固たる信念があるというよりは、
自分の世界観以外は許容できないに過ぎない。
いわば極度に主観的なだけである。
日常の小問題やどうでもいい問題は、できるだけ他人に譲り、
円滑に物事が運ぶよう配慮すべきである。
しかし、こと良心の問題となると、軽々しく譲歩することはできない。
私の信仰(良心の自由)が他人から強制されたり、
もしくは他人を強制してしまうような関係に発展した場合は、
やむを得ずして分離独立する必要がある。
なぜならそれは、神との一致和合を最も尊ぶからである。
分離が必要なのは、神との分離を避けたいがためである。
人間は社交的動物(アリストテレス)であると同時に、非社交的動物(カント)であれば、
霊魂を有する人間は、良心の自由を守るために、
それを圧迫するこの世の粘着的関係を断つ場合もある。
より大きな愛を守るために、時には愛を捨てる必要がある。
それと同じように、
より大きな合同を守るために、時には人との合同を捨てる必要もある。
そして、かかる覚悟のある個人が集まって、真正の合同が成るのである。
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川の向こう側にいたあなたたちの先祖が仕えていた神々でも、
あるいは今、あなたたちが住んでいる土地のアモリ人の神々でも、
仕えたいと思うものを、今日、自分で選びなさい。
ただし、わたしとわたしの家は主に仕えます。(ヨシュア記24-15)
人間は社会的動物であれば、他人と一致共同として生きねばならし、
是非とも周囲と和合すべきである。
しかし一致共同ばかりがいい訳ではない。
時には、涙を偲んで分離することも必要である。
もちろん、分離だって必ずしも良い訳ではない。
自分の信念に熱中するあまり、周囲の気持ちが見えなくなり、
右に左に噛み付いて、分離分裂を促進するのはよろしくない。
そういう人間は、確固たる信念があるというよりは、
自分の世界観以外は許容できないに過ぎない。
いわば極度に主観的なだけである。
日常の小問題やどうでもいい問題は、できるだけ他人に譲り、
円滑に物事が運ぶよう配慮すべきである。
しかし、こと良心の問題となると、軽々しく譲歩することはできない。
私の信仰(良心の自由)が他人から強制されたり、
もしくは他人を強制してしまうような関係に発展した場合は、
やむを得ずして分離独立する必要がある。
なぜならそれは、神との一致和合を最も尊ぶからである。
分離が必要なのは、神との分離を避けたいがためである。
人間は社交的動物(アリストテレス)であると同時に、非社交的動物(カント)であれば、
霊魂を有する人間は、良心の自由を守るために、
それを圧迫するこの世の粘着的関係を断つ場合もある。
より大きな愛を守るために、時には愛を捨てる必要がある。
それと同じように、
より大きな合同を守るために、時には人との合同を捨てる必要もある。
そして、かかる覚悟のある個人が集まって、真正の合同が成るのである。
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