キリスト者の慰め

無宗教主義の著者が、人生の苦しみに直面し、キリストによって慰めをえる記録

分離の必要-ヨシュア記13~24-

2008-10-23 02:17:54 | 聖書読解
もし主に仕えたくないというならば、
川の向こう側にいたあなたたちの先祖が仕えていた神々でも、
あるいは今、あなたたちが住んでいる土地のアモリ人の神々でも、
仕えたいと思うものを、今日、自分で選びなさい。
ただし、わたしとわたしの家は主に仕えます。(ヨシュア記24-15)



人間は社会的動物であれば、他人と一致共同として生きねばならし、

是非とも周囲と和合すべきである。

しかし一致共同ばかりがいい訳ではない。

時には、涙を偲んで分離することも必要である。


もちろん、分離だって必ずしも良い訳ではない。

自分の信念に熱中するあまり、周囲の気持ちが見えなくなり、

右に左に噛み付いて、分離分裂を促進するのはよろしくない。

そういう人間は、確固たる信念があるというよりは、

自分の世界観以外は許容できないに過ぎない。

いわば極度に主観的なだけである。


日常の小問題やどうでもいい問題は、できるだけ他人に譲り、

円滑に物事が運ぶよう配慮すべきである。

しかし、こと良心の問題となると、軽々しく譲歩することはできない。

私の信仰(良心の自由)が他人から強制されたり、

もしくは他人を強制してしまうような関係に発展した場合は、

やむを得ずして分離独立する必要がある。


なぜならそれは、神との一致和合を最も尊ぶからである。

分離が必要なのは、神との分離を避けたいがためである。

人間は社交的動物(アリストテレス)であると同時に、非社交的動物(カント)であれば、

霊魂を有する人間は、良心の自由を守るために、

それを圧迫するこの世の粘着的関係を断つ場合もある。


より大きな愛を守るために、時には愛を捨てる必要がある。

それと同じように、

より大きな合同を守るために、時には人との合同を捨てる必要もある。

そして、かかる覚悟のある個人が集まって、真正の合同が成るのである。



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