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健康

2008-02-09 | ライフスタイル
月曜日から体調を崩しました。
急な腹痛の後、激しい下痢、むかつきとなり、いつもなら寝て休んで回復させる(これが基本やと思う)のですが、「あかん、こりゃちょっといつもと違う」と思い、病院へ。
胃腸風邪と診断され、筋肉注射に、1時間以上の点滴と受け、何種類もある薬をもらって帰ってくる頃には、さらに熱も出て、全身のえらさ。
それから数日間、仕事中は気が張って、なんとか大丈夫だったのですが、帰路につくころは車の運転も危なっかしい状態で、フラフラでした。
仕事以外はとにかく寝て休んで、今日は日曜日。
あまりの雪に仕事もキャンセルとなったため、早い回復を願って、うどんをすすってます。
未だに調子は出ず。日にち薬と思っています。

大病を患ったわけでも、手術をしたわけでもなく、一週間弱身体がえらかっただけ、ご飯があまり食べられなかっただけで、気持ち的には天変地異の大騒ぎ。
普段の健康にあることへの感謝を改めて感じます。

寝込みながら見ていた新聞で、「健康」の言葉に引かれて、記事を読みました。

読売新聞 2008年2月7日木曜日夕刊から引用
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松山巌
【健康】不健康な国に飛び交う
メタボリック・シンドロームなる用語が喧伝されて、胴回りを気にする人は多い。ではミロのヴィーナスや運慶作の仁王像はどうだろか。ルノアールが描いた女たちもメタボリックの基準を上廻っていないだろうか。いずれの彫像や絵にも私は溌剌とした健康美を感じるのだが、眼の錯覚なのか。それとも健康という概念が突如として変わったのだろうか。
ここ十年のことだろう、健康という言葉が無闇に目につくようになった。むろんそれ以前から健康でありたいと誰もが希っていただろう。では健康とはなだろう。病気はわかる。医者にかかれば、なかにはわからない病名もあるが、ともかく定義できる。しかし健康は病気ではないという相対的な定義しかできない。
ところがいまや健康なる概念は確固としてあるかのように枠づけられはじめている。二〇〇二年に公布された「健康増進法」。その第二条には「国民は、健康な生活習慣の重要性に対する関心と理解を深め、生涯にわたって、自らの健康状態を自覚するとともに、健康の増進に努めなければならない」とある。これではまるで病気になったり、障害を得たりすることは罪のようではないか。
「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」という憲法第二十五条はどこにいったのか。もはや国は国民の健康を守ることはできないから、自分の体は自分で守れと義務を負わせている。医療費増大への対処だろうが、病気や障害をもたぬように日々努力するのは辛い。精神的に圧迫を感じ、病気になりかねない。私自身も病院の検査でいろいろ禁止され、かえってウツになり、仕事を休んだ経験がある。
健康な生活、健康な食品といった惹句も目立つ。一つの惹句なら、なにやら有難味もあるが、並べると不気味な感じがする。「健康増進法」を作成した人は、健康な街の健康な住まいに暮らし、健康な食品を口にし、健康な隣人と健康な交際をし、健康な体力づくりに励むのだろう。健康という言葉が飛び交う国は不健康だ。
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ということで、私は健康への関心を忘れ、不健康な生活を送ってしまったがために、医療費を増大させた上、法律を犯してしまっていたようです。
「健康」が流行している状況は、いわゆる「健康」状態でないことは、悪だと思ってしまう社会になりつつあるような気がします。
ダイエットやプールに行って体を鍛えようとする私自身にも、その悪を退治することは素晴らしいことだという思いが入っているのかもしれません。

また、連日の冷凍餃子の報道を見るに、国が国民の健康を守ることは難しいように思えます。事件や事故が起これば、法律整備や行政として処分が行われるのでしょうが、全てを未然に防ぐことはできる訳はありません。
そして自分の健康を国のみに頼る体質自体がおかしいのではないかと思います。
報道が過剰になるにつれて、成分表示ラベルに中国製と書いているか書いていないかや、入っている添加物はどこの工場でつくられたか書いていないといったことまでが問われています。法律ができれば、さらに成分表示は増え様々な情報が書かれ、さらに消費者は見なくなるでしょう。そのうち加工食品の一つ一つに電化製品の取り扱い説明書並みの成分表示本がつくことになるでしょう。

全てに枠組みを決めて、型にはめることで、美化されたような気分になるのではないでしょうか。それは結局誰かに全てをコントロールされている状況、ロボットなのでしょう。
国に自分の健康や安全を決められるって、嫌ですもんね。

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