Dr. Mori Without Borders / Mori-san Sans Frontieres

森 一仁が医学・国際政治経済金融・人文教養教育など関心問題を国際的・学際的に考える。

「産む機械」大臣の脳は器械並み?

2007-02-08 07:06:59 | 基礎生命医科学:基礎医学・生物科学
議会か何かの発言で、女性を指して「子を産む機械」に準えた大臣がおられるとか。医学生物学的な意味でのからだの生殖内分泌系のしくみについての発言だろうと冷静な頭では誰もがわかってはいるだろう。しかしながらこの「機械」と言う部分で、はたと考えてしまった。

生理学や薬理学では「からだのしくみ」などの「メカニズム」を「機序」と訳している。または「機構」と呼ぶ場合も無いとは言えない。英語でもからだ等のしくみを「MACHINERY」等と言う。決してMACHINEとは言わない。

機械であるMACHINEにはしくみとしての「MACHINERY」が備わっているが、これは人間とは峻別される。機械と呼称される存在がどれ程ヒトから程遠いのか、考えてみる。


機械とは純粋に物質的存在である。生命体とは異なる。ヒトには動物としての部分がある事は判る。次世代を残していくと言う生理学的・生物学的機序は、確かに他の動物と共通のものを持っている。だからヒトの臨床医学的関心からの生殖生理学や神経内分泌学の研究は、ラットやマウスと言う別の種で研究をするのだ。或いはサルかも知れない。

ここまではヒトを「動物」として見る事が出来ると言う立場が根底にある。養老孟司先生の言葉を借りれば、基礎医学とは「哺乳類の生物学」に他ならないのだそうだから「人間動物学」と言う思想を具現化している事に成る。この立場だってある人々には屈辱的に感じられるに違いない。同じキリスト教でも「生物進化」を完全に否定してかかる方々がおられる。「ダーウィン進化論」と「生物進化」は等価では無いのであるが、「進化=ダーウィン」と言うイメージが固定化した現在では、この論理的誤謬に気が付きにくいのだろう。

さて「人間機械説」とは如何なる思想・信条なのだろうか。人間を生命体として、すなわち動物としてみることすらも拒否しているのである。純粋な唯物論的思想が根底に横たわっている。機械には自己創出(オートポイエーシス)する事がない。負のエントロピー(ネゲントロピー)を食べて同化する作用も無い。生命体の環境に対する柔軟な応答も、環境情報の認知・認識と言った超高度なシステムもまだまだ備えられていない。線形のシステムの中で、複雑多岐にわたる現実に対して柔軟に対応する術もなければ、人間のようにそれを文化・伝統として継承・存続していくということもない。フィードバック制御を機械は備えうるが、それを据え付けたのは人間である。人間が機械であるならば、では誰が高度な生体のシステムをデザインして備え付けたのだろうか?

ここで「神」がデザインしたとするならば、この大臣はおそらくこんな発言をしなかっただろう。世界中の主要宗教では人間を神の似姿と捉える。逆に人間が完全に物質の中から生まれてきた「機械」であるとするならば、デザイナーは「偶然」と言う名の何かであろうとでも言うのか?物質が集まり、それが機械としてオーガナイズされたのであれば、そんな機械は奇跡的な存在である。ところが実際には地質学・化石学のデータからは「定向進化」が明らかに窺えると言う。だとすると、この大臣は人間を論ずるには浅薄な知識の私以上に相当不勉強なようである。「偶然」と呼ぶには困難な、何かの法則に導かれて生物がある一定の方向性で進化を続けているようだと言うのである。これが果たして機械だろうか?

どうもこの機械論大臣の脳は器械並みのようである。そんな大臣を戴く我々は市民としての民度の低さを恥じずにはいられまい。

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