Dr. Mori Without Borders / Mori-san Sans Frontieres

森 一仁が医学・国際政治経済金融・人文教養教育など関心問題を国際的・学際的に考える。

EBMは行動主義か?

2018-04-23 15:19:58 | 臨床医学
EBMについて改めて触れる機会を得たのだが、丁寧に勉強しなおすと誤解の多い分野であると改めて感じさせられた。まず統計解析によってデータを出して、それを当てはめていくだけの医療であるかのような理解のされ方をしている事があるのだが、EBMの本質からすると、これは真逆なのである。

患者の自己決定の権利に基づいて、患者の価値観を最大限に優先しながら、臨床研究で得られたデータに基づいて治療方針を決定していく・・・だからこそテイラーメイド医療とさえ言われたのであるが、なにかこうフォード方式でベルトコンベイヤーに乗せられた自動車のように工程が決められていて、患者はあたかもこの工程における自動車のような扱いを受けているような印象を抱いている人々に少なからず出会った事を思い出して、色々と考えさせられたのである。

本当は逆で、各種パーツに相当する治療プラン等は確かに厳密に決定されているが、どのパーツを組み合わせるかについてはクライエントの意向が反映されていなければならないのがEBMなのである。全工程が工学のPERTのように予め決められているのはEBMではないのである。

EBMの実際の応用の部分については一般の印象と異なって、患者本位の医療を行う事を是としているのは先駆者たちも警告しているので間違いないのであるが、使われているエビデンスの方はどうなのであろうか。エビデンスと言えば医学研究において統計解析を経たデータは全て含まれるような印象を持たれているようだが、まずもって臨床研究に限定されている事が大事である。こうなると基礎医学の広範なデータはエビデンスに含まれないか、或いはエビデンスの一部をなしていても、それ自体はグレードが低いという事になる。

もう少し具体的に言うと、臨床研究においても、臨床家の介入が行われている限りは臨床推論がなされている筈である。治験ともなれば介入は治療行為であるから、ここには臨床推論が伴ってきて当然である。しかし診察・治療時点の着想である臨床家の直感であるとか、累積された主観情報である非系統的な臨床経験であるとか、はたまたブラックボックスの推論である病態生理学の推論は「臨床判断には充分ではない」と定義されているのである。病態生理学・臨床生理学・薬理学実験・分子生物学等のような基礎医学ではなく臨床研究が主体でなければならない、にも拘らず主観的である臨床推論は排除されていく・・・こうしたプロセスを経てエビデンスが構築されていく訳である。

要因とアウトカムの関係性だけに注目をして、途中の病態生理学的な推論(病態生理学・臨床生理学・薬理学実験・分子生物学もすべて含めてであるが)を排除する考え方・・・こうした考え方が以前どこかに無かったかと考えてみると、心理学における行動主義だったと思われたのである。ブラックボックスである患者の生体への入力情報である「要因」と、その生体を通して得られた出力情報である「アウトカム」を厳密に定量化して評価して出していくデータ・・・エビデンスであるが・・・これは行動主義の考え方に酷似していると初めて気が付いたのである。行動主義はその後認知科学が勃興してブラックボックスをある程度可視化して議論することが出来るようになったので主流とは成り得なかったのだが、医学はどうなのだろうか。また看護学では看護理論と言うものがあるが、医学では医学理論と言う言葉を聞かないし、医学部でも教わらない。EBMはひとつの医学理論となり得るのだろうか、そして生き残っていけるのであろうか。

最新の画像もっと見る