Dr. Mori Without Borders / Mori-san Sans Frontieres

森 一仁が医学・国際政治経済金融・人文教養教育など関心問題を国際的・学際的に考える。

風功の振り子

2007-02-03 02:30:48 | 人間発達論:言語・外国語・高等教育
今更「教養」の無さを嘆いても仕方あるまい。無ければ何とか教養を付けるしかない。教養とあって、一朝一夕では身にならない。嘆きながら己の無知を厭と言う程に自覚して、結局読書する事になる。

読書すると言えども時間は限られる。特に雑用のある時には尚更だ。やっと雑用が片付いたので、では読書でも・・・と言う訳にはいかないのが現実である。現実にはプライオリティーが存在するからである。万巻の書を渉猟し・・・とは学生時代の特権である。

職業人はまず専門書の解読が第一である。専門書は丁寧に読まねばならない。気軽な読書とは異なる。ここに実用の読書の存在する理由がある。実用の読書では「速読」も用いられる。速読では「こころ」を通して玩味咀嚼する必要は第一義的には無い。むしろ正確なデータと結論の論理的真偽を掴む事の方が寛容である。これについては精神科医の神田橋先生が書かれておられたが、本論からは除しておこう。

さて専門書の解読とあって、やっとの思いで仕事に取り掛かると、否、仕事に没頭すればする程に、他ごとがしたくなってくる。気にすまいと思えば思うほど、無機質な専門書よりも、意味のある文章が読みたくなる。「教養書へのとらわれ」を取り除こうと、もがけばもがく程にその試みは失敗に終わる。こうなると心気症・神経症・依存症みたいなものである。治療の為に小さな教養書を読む。

細かい問題について解析して論じた物事を纏まって扱おうと言う時、やっぱり目に付いてしまった。日本文学史やら中国史やら、昨今の問題と関連して皇室問題や日本史やら、ラテン系言語としてのフランス語論やら・・・。大学や高等教育の味をしめてしまうと、こんな恐ろしい弊害がある。いやはや学究に終わりなし・・・か。

こうして風流としての教養と、功利としての実用的な書籍との間で振り子のように揺れ動いている。これが精神のホメオスタシスを保っているのであろうか?
(風=風流≒教養/功=功利≒実用//画像は講演するミシェル・フーコー・・笑)

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