Dr. Mori Without Borders / Mori-san Sans Frontieres

森 一仁が医学・国際政治経済金融・人文教養教育など関心問題を国際的・学際的に考える。

核アレルギーとイデオロギー ~混ぜるな危険、科学とイデオロギー~

2011-05-18 02:30:28 | 情報・技術・最先端理工学
福島第一原発の問題が浮上してから様々な「情報」と「意見」と「憶測」とが飛び交っている。「情報」と「意見」と「憶測」と書いたが、「意見」と「憶測」の中には本問題を理解して出された「意見」や「憶測」もあれば、「情報」に対する理解の不足のままに出された「意見」と「憶測」があると思う。何よりも「正しい情報」ですら一知半解のままに、「不安」と「恐怖」に基づいて出された「憶測」が多数出されているように思える。

この「不安と恐怖」はなかなかコントロールが難しいので、「不安と恐怖」を表す表現もいきおいセンセーショナルなものとなる。不安の度合いが増せば増すほどに、これをかき消そうと余計に自らの心を煽りたてるので、表現は必要以上に過剰になる。過剰になった表現は、一般の目には止まりやすいものとなる。スポーツ新聞の第一面を見れば明らかであろう。私たちはこうした情報を掴み易い心理的性質をみな持っている。だからスポーツ新聞やゴシップ週刊誌は売れるのだ。

ここで取り残された「情報」の問題があるが、本件は原子力工学と言う高度な科学技術の問題が関係しており、これを正しく理解するには大学工学部専門課程程度の知識が必要とされるだろう。「情報」と「意見」と「憶測」と書いたが、この「正しい情報」を伝える事すら難儀なのである。それゆえジャーナリストの池上彰氏が引っ張りだこなのだろうが、一般の大多数の人間は工学の初歩的な知識を持ち合わせていないし、それだからこそ「分かりやすい説明」が困難を極める。「情報の受け手」に「基礎知識」がある場合は話が早いからだ。

しかし「分かりやすい説明」が難しいとなると「正しい理解」が難しくなり、そこからいきおい「正しい意見」が出しにくくなる。「正しい意見」とは判断の正誤よりもむしろ「正しく推論された意見」と言うべきかも知れない。「正しく推論された意見」よりも「不安や恐怖に基づいて性急に培われた意見」が跳梁跋扈する時、二次情報としての意見がオーバーフローしてさらなる「憶測」を生む。一種の情報パニックだ。

問題は「正しい情報」が出されていればよいのだが、今回の一連の問題を通じて一般市民は政府・東京電力・原子力保安院の「原子力枢軸」が一種の情報操作・情報統制を行っていると考えるに至ったのである。「正しい情報」を流布する筈のマスメディアがこの「原子力枢軸」と歩調を合わせる形でネガティブ情報を「外部」である一般市民に出さない方向で動くと、人々は「類推による埋め合わせ」を始める。多くの人間は自らの信念体系に反する情報は受け容れ難い。「類推による埋め合わせ」は自らの「認知的不協和」を最小限に留める方向に向かって行われるので、個々の信念体系が状況判断に大いに意味を持ってくるのだ。

さて本邦では「原子力問題」は「科学」の問題ではなく常に「イデオロギー」の問題として論じられてきた。生物学におけるルイセンコ論争を想えば「イデオロギーが科学に影響するなんて古臭い、バカげた話だ」と思われるかも知れないが、本邦ではこの「馬鹿げた非科学的論争」が常に原発問題にのみ保存されてきたのである。私の立場を明確にしておくと「科学・技術にイデオロギーを持ち込むのは何人たりともアホ」である。「ルイセンコ論争当時並みの化石頭」の称号を授与したい。

ここで本邦の政治的な保守派は多くが文科系、左翼系は理工系が多いと言う特殊な事情が存在していた。理工系が左翼系に多いのは唯物論哲学の影響であろうが、こんな事情から保守系は伝統的に理工系の問題や原発問題に疎いと言う事実があった。国内外の政治経済には明るいが科学行政・産業技術行政となるとサッパリと言う問題を露呈してしまったのであった。そして理工系に長けた左翼系は原子力発電や軍事防衛問題等に対しては常に反対派のスタンスを取ってきた。ここでイデオロギーに基づいた「原発推進」と「原発反対」が固定してしまったのである。

原発反対派である左翼系は、「真に科学的」であれば「原子力技術の改善」を訴えて更なる平和利用への道を説く筈なのだが、こちらもいかんせん一旦中央政府の「原子力技術推進」に対して反対のスタンスを表明した手前、自らの立場に対して「認知的不協和」を起こしたくないので原子力発電を「反対」としか言わなかった。原子力エネルギー技術の持つ良い面も恐らくあるのだろうが、これは一切無視された。当然の事ながら「平和利用」を超えた「原子力技術推進」についてはタブーとなってしまったのである。

しかし日本国全体を見渡せば、普天間問題と米軍撤退の可能性も考慮した上では当然に「核武装論議」が出てくるのである。周囲に中国・北朝鮮を控えており、また彼らが核保有を宣言したとなるとポスト冷戦の国防に「核抑止力」の問題が出てくる事は否めない。表向きは「核非保有国」の日本だが敦賀の「高速増殖炉」と六ヶ所村の「核燃料再処理施設」の存在を考えると日本は「潜在的核保有国」であり、これが一種の中朝への「抑止力」となっているのかも知れない。もしそうだとすると「核抑止力」の観点を無視して「原子力技術全面停止」を宣言する事は軍事地政学的パワーバランスを自ら崩す事になる。「国全体」で考えた場合の「原子力技術の平和利用以外の応用」と言う問題は実はタブー視どころか、米軍撤退による抑止力の低下を考慮すると、今後議論していかねばならないのだが、ここにイデオロギーを絡めてしまうとまた議論が難航するのである。

原子力技術の商用利用は、内部で働く「原発奴隷」の問題や「杜撰な設計」等、今のところ問題が多すぎるので「現時点で賛成しない」が、原子力科学の研究、原子力電力技術の開発、放射線生物学・放射線医療の研究と応用等、「原子力反対」と簡単に一言で言いきれない事情が山積みとなっている為に商用エネルギー技術以外の部門まで閉鎖・縮小すべきではないと考える。福島第一の問題は原子力技術の商用利用がまだ早過ぎたのかも知れないと言う観点を念頭に置きながら、核防護及び対処能力を持った実働部隊を有効に使って現在の諸問題を解決して頂きたいと思う。未曾有の国難を眼前にしてイデオロギーの差異や政治的な右も左も無い筈である。況してや科学的議論をするのに再三再四イデオロギーを持ち込むのは議論を遅らせるだけであると思う。

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