艦長日誌 補足(仮) 

タイトルは仮。そのときに思ったことを飲みながら書いたブログです。

三国日誌 補足(仮) その27~名士の役割 補足

2008年11月09日 23時20分43秒 | 三国日誌 補足(仮)
 「なぜこれほどまでに名士という地位が尊重されるのか?
 儒教を修めているし、豪族だし、頭いいから?」

 そのあたりが、前回の話ではイマイチわかりづらかったかな?
 後漢が衰退したのは宦官たちの横行による朝廷の腐敗が原因ってところから、話を遡って検証してみましょう。

 宦官ってのは、皇帝の身の回りの世話も行いますが、地位としては決して高いものではありません。
 儒教では、「子が親に『考を尽くす』(親孝行)」ってことが一番尊いものとして位置づけていましたから、宦官のように子を為すことのできない者たちは、儒教的にはナシなんです。

 それでも宦官は、皇帝の側にいるためにいろいろな利権に絡むこともでき、賄賂ももらえるし、人事権も勝手にいじれるほどに影の力を伸ばしていました。
 政治が腐敗するような世の中になると、各地の豪族や富豪たちが、出世を金で買うようになります。

 公務員ってやつは、本来は国のために国民のために働く非常に崇高な仕事なのでしょうけど、金や不正で出世なんてイカンですよね。
 こうなると、とうぜん政治はめちゃくちゃになります。右は左になり、白は黒と評され、ウソは本当になり、悪は善になる。

 宦官に取り入ろうとした地方の豪族はたくさんいましたが、「やっぱいけないことはいけないよ!」と断固として宦官たちの反対した勢力も多く存在しました。
 これが名士の始まりと言っていいかなと思います。

 「身分が金や不正で手に入るような時代なのなら、自分たちで新しい身分を作ろう。それも、誰からも束縛されないものとして」
 その身分評価の基準は、国の基ともされる儒教に拠りました。

 儒教では、清廉の心、清貧、孝行、義を重んじ、ひとのために生きるということをベネとします。(なんか僕、みんなを儒教に洗脳しようとしてる?)
 そのために人物評価を、宦官に反対したものたちは行うようになります。

 たとえ無名の一個人であっても、貧しいものでも、能力に秀でたものがあれば、「キミなかなかやるね~」と名士たちは高く評価しだしました。
 バカなのに威張っているだけの官僚や公務員たちを徹底的にこき下ろし、本当に優れたものだけを(あくまで儒教に照らして)取り上げる。

 漢王朝にたいして嫌気のさしていた民衆も知識人も、この新しい価値基準を受け入れるようになりました。

 名士たちが作り上げたもの、それは新しい価値観なのです。
 金でも権力でも、軍事力、武力でもない、文化という価値基準。

 宦官たちは当然これに対し圧力をかけます。
 これが「党錮の禁」です。教科書に載っていたかな?

 名士たちに、漢帝国を蔑ろにしたという罪をかぶせて投獄し、処刑しました。
 なによりも国と民衆のことを考え憂える者たちが、無残にも正義の粛清の名のもとに消されていきました。

 しかし、名士たちは結束し、各地にネットワークを張り、情報網は半端じゃあない。地域での支持を得ていた者も多いので、全滅することはありませんでした。
 すでに、おいそれと退けられる存在ではなかったのです。

 メディアのない時代ですが、政治にも戦争にも必ず「情報」というものは重要視されます。
 この「情報」を名士同士はやりとりし、政治力を持ち、能力のひとつとして軍略(どの時代でも常に政治と戦争は同じ側面をもちます)をも会得し、また前述の人物評価によって、勢力を拡大しました。

 (うまく書けないんだけど…勢力を拡大した、と言っても国を征服しようとしたとか漢の国に取って代わろうとしたってことじゃあないよ)

 群雄割拠の時代が訪れ、三国志の登場人物が現れる頃には、名士はひとつ大きな存在となりました。
 各国の軍師である荀や荀攸、周喩や魯粛、諸葛亮や龐統。
 知識をもち、人々の信望もあり、情報をもつこれら名士が重用されるのは当然の流れなんですね。

 名士とは、家柄とその能力、名声だけで決められたものではありませんってのは先に書いたとおり。
 幼くして盧植先生のもとで儒教を学ぼうとした劉備も、片時として春秋左氏伝を離すことがなかったという関羽も、実は名士に成ろうとしていました。
 名士という地位、名声は、生まれがどうであれ、能力を認められればどんな人間にも得ることができたのですから。

 国家を保つために名士のような知識は当然必要。
 その知識をもとに、今後の国の方針や向かうべき道を指し示す人物こそが、今荊州でトボトボしている劉備玄徳には欠けているものです。

 その昔、劉備が陶謙から徐州を譲られる前の頃に、その地にいた名士である陳羣(ちんぐん)という人物を召しだしています。
 陳羣も、曹操に対する荀のように、劉備に対して献策を行っています。

 その献策とは、陶謙から徐州を渡すという話があっても「断れ!」ということでした。
 今の情勢を見るに、徐州を領有すれば、北方の袁紹や、南の袁術からも目の敵にされ、曹操からも「ただならぬ勢力である」と目をつけられてしまうであろうという考えからです。
 名士たちは、そのネットワークで様々は知識と情報を共有していました。陳羣が劉備に対してこう言ったのは、けっして勘やその場の状況を観ただけではなく、大局を見定めた上での献策だったのです。
 結果、劉備は陳羣の話を取り上げずに、まんまと陶謙から徐州を譲られます。そして曹操に攻められましたね。

 陳羣は名士として劉備を密かに評価し「このひとは本当に世を憂い、民衆に光をもたらすほどの人物であるに違いない」と考えていました。
 しかし、その期待は裏切られます。
 劉備も陳羣という人物の重要性、名士の必要性には気がついていました。だがこれを重く用いることができませんでした。
 なぜなら、劉備が一番としたのは名声でも支持でもなく、「仲間との協調」だからです。

 陳羣がどんなに策略を練っても、関羽と張飛が「曹操逆賊、なにするものぞ!我ら兄弟の力で追い払ってやる!」といえば、劉備も「そうだそうだ、俺ら三人で蹴散らしててやらぁ!大統領でもぶん殴ってやらぁ!」ってな具合でした。策略もなにもあったもんじゃあない。
 陳羣は劉備を見限り、離れていきました。

 義だけを重んじ、名士を用いることのできなかった劉備。
 名士の智謀を借り、それの地位を保護し、その名声を利用し、力を得た曹操。
 名士をまとめるために多くの名士を出仕させ、確固たる地盤を築いた孫権。

 テキトーに書いているようで、けっこうテキトーな『三国日誌 補足(仮)』の今。
 荊州にて「これからどうすればいいのか…」と悩む劉備には、こんな事情もあったんですね~。あとづけで、いいように書いているのが見え見えですね~。

 それでも「なるほど!そういうことなのか!」と読んでいただければ、ますます僕の三国志の意味不明なあたりが、もっと意味不明になること受け合いです。

 …
 その劉備に対し、荊州の名士たちが今一度、接触を謀ろうとしています。