平成24年2月16日(木)
「荒尾二造市民の会」設立の記事は先に紹介しました。「荒尾二造」(東京第二陸軍造兵廠荒尾製造所)は1939(昭和14年)に旧荒尾町、有明村、八幡村の100万坪の敷地に建設されました。石炭から抽出される石炭酸を原料として黄色火薬を生産する陸軍直営の火薬製造工場でした会の設立の趣旨は失われゆくこうした施設の保存と活用を市民レベルで行動し、“平和の砦”として語り継ぐことにあります。
去る12日、快晴の日曜日、多数の参加者があり『荒尾二造の歴史をさぐる』-荒尾二造フィールドショップの集い-がありました。
最初に向かったのは「廃水処理場」(縦50m、横40m、深さ2.8m)です。造兵廠から流す廃水を2本の水路を通し、ここに貯めて生石灰で中和し、有明海に流していました。ガイドは副会長の高谷さんです。【この稿の記述に当たっては、いただいたパンフ、「設立趣意書」等を参照させていただきました。】
現JRの線路下をくぐって来ている貯めマスです。ここから「廃水処理場」へと流れていきます。日本の廃水路のことを私たちは子どもの頃「悪水川」と呼んでいました。黄色くて臭い流れでした。
次に向かったのは技術将校官舎跡です。初代所長のS大佐の息子さんはどんこの中学校の2級先輩でした。
簡易裁判所に駐車させてもらいましたが、ここは将校の集会所だったそうです。官舎は既に一般に払い下げられましたが、まだ当時の面影を残している擁壁や門もあります。
裁判所の西側、市屋のお宮参道沿いには「陸軍用地」という標識の石の杭が数本残っています。分かりやすいように事前に取った拓本で字が鮮明に分かります。
県立荒尾高校の敷地には木造2階建ての本部棟がありました。現存しているこの建物は検査掛棟(通称“分析室”)で、現在は部室・トレーニングルームとして利用されています。内部は頑丈な造りになっています。
このブログでも度々紹介している変電所跡です。競売を留保してもらっている施設です。荒尾市が買い取って保存してくれればと会のみんなは願ってはいますが・・・。今回は普段は立ち入れない上部の雑木林の上にある5基の排気塔を見ることが出来ました。その大きさ、丈夫さにみなさん、感嘆の声を上げていました。
最後に回ったのは火薬庫跡です。競売されて個人の所有になっているものもあります。火薬作りには旧制中学、高女の生徒たちが勤労奉仕として泊まり込みで働かされ、この会の矢野会長さんも「良く殴られ、蹴られたりしていい思い出は一つも残っていない」と述懐されていました。
個人の所有物ですが好意で見学出来ました。表面は塗装されかつての面影は残っていません。この内部です。火薬庫にふさわしい堅牢な造りになっています。
昼食後中央公民館で学習会(ワークショップ)があり、4班に分かれ、①本日の見学ですごいと思ったこと。②今後の課題。③万田坑との見学ルート等の設定について、グループ討議をして代表が発表、事務局でまとめがありました。貴重な“近代遺産”が沢山残っている現実をどう市民に周知啓発していくか、“平和の砦”としての活動の視点を大事にしながら、地道な歩みを活動を推進していきたいとの思いが共有されたような半日でした。
【お知らせ】荒尾干潟写真展“干潟に翼を休める渡り鳥たち”の開催について荒尾市のホームページに紹介されています。
ここ
「荒尾二造市民の会」設立の記事は先に紹介しました。「荒尾二造」(東京第二陸軍造兵廠荒尾製造所)は1939(昭和14年)に旧荒尾町、有明村、八幡村の100万坪の敷地に建設されました。石炭から抽出される石炭酸を原料として黄色火薬を生産する陸軍直営の火薬製造工場でした会の設立の趣旨は失われゆくこうした施設の保存と活用を市民レベルで行動し、“平和の砦”として語り継ぐことにあります。
去る12日、快晴の日曜日、多数の参加者があり『荒尾二造の歴史をさぐる』-荒尾二造フィールドショップの集い-がありました。
最初に向かったのは「廃水処理場」(縦50m、横40m、深さ2.8m)です。造兵廠から流す廃水を2本の水路を通し、ここに貯めて生石灰で中和し、有明海に流していました。ガイドは副会長の高谷さんです。【この稿の記述に当たっては、いただいたパンフ、「設立趣意書」等を参照させていただきました。】
現JRの線路下をくぐって来ている貯めマスです。ここから「廃水処理場」へと流れていきます。日本の廃水路のことを私たちは子どもの頃「悪水川」と呼んでいました。黄色くて臭い流れでした。
次に向かったのは技術将校官舎跡です。初代所長のS大佐の息子さんはどんこの中学校の2級先輩でした。
簡易裁判所に駐車させてもらいましたが、ここは将校の集会所だったそうです。官舎は既に一般に払い下げられましたが、まだ当時の面影を残している擁壁や門もあります。
裁判所の西側、市屋のお宮参道沿いには「陸軍用地」という標識の石の杭が数本残っています。分かりやすいように事前に取った拓本で字が鮮明に分かります。
県立荒尾高校の敷地には木造2階建ての本部棟がありました。現存しているこの建物は検査掛棟(通称“分析室”)で、現在は部室・トレーニングルームとして利用されています。内部は頑丈な造りになっています。
このブログでも度々紹介している変電所跡です。競売を留保してもらっている施設です。荒尾市が買い取って保存してくれればと会のみんなは願ってはいますが・・・。今回は普段は立ち入れない上部の雑木林の上にある5基の排気塔を見ることが出来ました。その大きさ、丈夫さにみなさん、感嘆の声を上げていました。
最後に回ったのは火薬庫跡です。競売されて個人の所有になっているものもあります。火薬作りには旧制中学、高女の生徒たちが勤労奉仕として泊まり込みで働かされ、この会の矢野会長さんも「良く殴られ、蹴られたりしていい思い出は一つも残っていない」と述懐されていました。
個人の所有物ですが好意で見学出来ました。表面は塗装されかつての面影は残っていません。この内部です。火薬庫にふさわしい堅牢な造りになっています。
昼食後中央公民館で学習会(ワークショップ)があり、4班に分かれ、①本日の見学ですごいと思ったこと。②今後の課題。③万田坑との見学ルート等の設定について、グループ討議をして代表が発表、事務局でまとめがありました。貴重な“近代遺産”が沢山残っている現実をどう市民に周知啓発していくか、“平和の砦”としての活動の視点を大事にしながら、地道な歩みを活動を推進していきたいとの思いが共有されたような半日でした。
【お知らせ】荒尾干潟写真展“干潟に翼を休める渡り鳥たち”の開催について荒尾市のホームページに紹介されています。
ここ
一杯埋蔵されているようです。
私などは中学校では軍需工場の建物を移築した校舎で学んでいたのに、
学校ではほとんど何も教わりませんでした。
今の海陽中の校舎の敷地の東側には
大きな煙突が立っていましたよ。
若い人たちに、少しでも語り継ぎたいと思っています。
軍需工場があったことは知っていましたが、強制立ち退きなどをして作られたのですね。
叔父が中学生の時、軍需工場に行かされ難聴気味になったと聞いています。
こういう負の遺産も若い人たちにちゃんと教えたいですね。
わが市の万田坑の世界遺産登録の運動も同じです。
負の遺産に目をつぶることなく
全容を把握した上で推進したり、維持させたりすることが大切でしょうね。
「荒尾二造」のパンフレットも近々出来上がるそうです。
もっともっと周知されて、理解が深まればいいなあと期待しているところです。
意義ある見学会でしたね。。貴重な画像を拝見できて嬉しいです。
当地の炭坑画の世界遺産登録もですが
私達が見る時に せっかく機会を得たのだから
ただ見るのじゃなく 考えることが大切ですね。
戦争の遺物だったら 仰るように平和の尊さを・・・
炭坑画も今のエネルギーに代わる前の過酷な労働条件の中 通ってきた人たちの支えがあったと言うことを・・・
そういう風に思いました。
tomi先輩のブログについては
事務局の高谷さんも良くご存じでした。
こちらこそこれからもよろしくご教示くださるようお願いいたします。
今後とも情報発信よろしくお願い致します。
地元に住んでいながら地元の歴史などについて
この歳になってもまだまだ疎いことを反省しています。
時間と身体が許す限り、外に出てみようと日々心がけてはいます。
荒尾二造には特に思い入れがあります。
多くの市民が百万坪の広大な軍需工場設置のために
田畑を失い、転居させられました。母の実家も同じ境遇に遭いました。
長姉も当時女学生で勤労奉仕にかり出されていました。
意欲のある若い人の参加は心強いです。
もっともっとこうした“近代化遺産”を周知させる取り組みや
平和の尊さを語り継ぐ活動を推進したいものだと痛感しました。
市民レベルで行動し、“平和の砦”として語り継ぐこと、いつもこのような活動に参加されるドンコさんに敬服です。
荒尾市辛亥革命100周年記念事業、消え行く荒尾競馬場、万田坑跡が世界遺産・・・etc。
勤労奉仕という懐かしい言葉も出てきました。
きっとここで携わった人にとっては感慨ひとしを第2のふるさと!?自分の手垢の着いた機械や器具・・・・でありましょう。
石に指先を指して見入る人・・・。
画像に現れている方に若い方もいるようですが、これからはこの語り継ぐメンバーの皆さんが多くの方達に語り継ぐ大切な役目が有るように感じました。
頑張ってください。