平成23年6月12日(日)
「荒尾二造」とは当市に残る「旧東京第二陸軍造兵廠荒尾製造所」のことです。かなりの製造所跡は民間に競売され、年々その姿を消していますが最大の跡がこの変電所です。
九州財務局が競売にかけようとしていたのを市民グループが市に働きかけてのが功を奏し、2年間の競売停止にこぎつけ、市も取得・保存の可能性を検討しているようですが、財政難の折、先行きは不透明の状況のようです。
会の発足趣意書にはこう謳っています。「荒尾市民にとっては、荒尾市電、万田坑とともに“荒尾の心象風景”をなすものです。まさに荒尾二造の各施設は、万田坑の石炭利用を知る近代化遺産であり、戦争の実相を知り、平和の大切さを伝える戦争遺跡でもあります。」
総会が開かれた会場です。地元テレビ局などマスコミが数社見えていました。
副代表の高谷さんから「近代化遺産・荒尾二造変電所跡等の重要性」と題しての分かりやすい講話がありました。
総会の後、小雨の中、現地見学会がありました。内部は見学出来ませんでしたが、いつもは閉じてあるフェンスが開けられて間近に見ることが出来ました。失われつつある近代化遺産を保存し、それを生かす方途を共に考えたいものです。
なお、以前に このブログでアップしたこともあります。
この保存活動に関心のある方の会員を募集中です。ここへお問い合わせください。
事務局電話0968-62-6065
「荒尾二造」とは当市に残る「旧東京第二陸軍造兵廠荒尾製造所」のことです。かなりの製造所跡は民間に競売され、年々その姿を消していますが最大の跡がこの変電所です。
九州財務局が競売にかけようとしていたのを市民グループが市に働きかけてのが功を奏し、2年間の競売停止にこぎつけ、市も取得・保存の可能性を検討しているようですが、財政難の折、先行きは不透明の状況のようです。
会の発足趣意書にはこう謳っています。「荒尾市民にとっては、荒尾市電、万田坑とともに“荒尾の心象風景”をなすものです。まさに荒尾二造の各施設は、万田坑の石炭利用を知る近代化遺産であり、戦争の実相を知り、平和の大切さを伝える戦争遺跡でもあります。」
総会が開かれた会場です。地元テレビ局などマスコミが数社見えていました。
副代表の高谷さんから「近代化遺産・荒尾二造変電所跡等の重要性」と題しての分かりやすい講話がありました。
総会の後、小雨の中、現地見学会がありました。内部は見学出来ませんでしたが、いつもは閉じてあるフェンスが開けられて間近に見ることが出来ました。失われつつある近代化遺産を保存し、それを生かす方途を共に考えたいものです。
なお、以前に このブログでアップしたこともあります。
この保存活動に関心のある方の会員を募集中です。ここへお問い合わせください。
事務局電話0968-62-6065
父がここに勤めていて、月田区の官舎に住んでいました。変電所の上には、めじろを鳥もちでとりに行った思い出があります。
写真の火薬の種類と製法には不正確なところがあると思います。私のブログを参考にして下さい。
荒尾二造遺跡の保存活動にエールを送ります。
万田坑、荒尾二造
荒尾二造は大砲武器弾薬などを作られていたのですか。
やはり当時のエネルギーは石炭でしたから、石炭の豊富な九州に出来たのでしょう。
これだけのものを保存していくことは大変でしょう。
講演場のバックにある<<和を以って尊しとなす>
この言葉が好きです。
入口と階段を観てあれ?と思いましたが
リンク先の以前の記事で 崖をくりぬいて造られたいたことが分かりました。
これは見つけられないように・・・なのかな?
階段に降り積もった落ち葉が なにか寂しさをうったえてるようです。。
それはそうと・・・・テレビ局が来ていたと言うことは
その放送があるのでしょうか・・・
母から女学校時代、荒尾の軍事工場で働いていたとは、聞かされていましたが、どのような仕事をしていたか知りませんでした。
寮生活(?)での女学生ならではの話は聞かされていました。
「〇〇さんはいつも下駄を履いてダラダラ歩いていた。」とか「△△サン達が夜中に抜け出し、帰ってきたとき見つかってしまい、上官の人に叱られた。」など、まだ若い女学生だったからか、母の話からは緊張感は感じられませんでした。
ただ、夜、前の道路を歩いて帰る途中、夜空から轟音とともに飛行機から照らされる光が怖くて走って逃げ隠れたことは聞いたことがあります。
荒尾と大牟田が同一市内みたいな状況がここにもあるのでしょうね。熊本では「荒尾って、熊本県?」って聞かれたこともあったんですよ
このような歴史があって、今の私達があるのですよね。いつの時も先人達のことは忘れてはいけない『形』は残したいですね。
情報が機密になっていると聴かされると
知りたくなるのが心情です~~~
歴史ある施設
保存されるといいですね。。
軍の建物をそのまま小学校の分校で使いました。
間を仕切って、住宅にもなっていました。
遠い風景になりましたが・・
火薬倉庫だったと言われる倉庫が沢山ありました
意味も分からず、普通に見て過ごしましたが、そうだったのかと今納得しました。
コメント、ありがとうございました。
総会にもかつてここで働いていた方とか
学徒動員で従事していた方などが参加されていました。
「熊本の戦争遺跡研究会」編集の『熊本の戦争遺跡』のP136~P149にも詳述されています。
ご意見ありがとうございました。
関係者にはtomさんのブログを紹介したいと思います。
これからもよろしくお願いいたします。
こう記述されています。
「主な生産品は爆弾、砲弾に使用する黄色(火)薬、茶褐色(火)薬で一時期は風船爆弾に使われた爆薬も生産したとの証言もあります。」
戦時中には敷地内には一般人は入れませんでしたが、排水溝から流れてくる黄色い臭い液体はいつも見ることが出来ました。
終戦直後は黄色い火薬の跡などが残された倉庫で散見されました。
微力ながら会の一員として活動していきます。
建造する時には上部も削り取って
後でまた盛り土したのかもしれませんが
とにかく後ろは小高い山になっています。
変電所は各工場へ電力を供給する重要な働きをしますので
上空から見つからないような造りにしたのですね。
いつ放送されるのか確認しなかったので
私も見ることが出来ませんでした。
2日連続でしたから驚きましたね。
テレビで沖縄が梅雨明けしてから
4日間に熊本は集中豪雨の確率が高いと言っていましたが
その通りになりました。
旧制中学や旧制高女の生徒さん方が動員されていました。
私の姉なども良く当時の苦労話をしていましたよ。
お母様もそうだったのですね。
そうそう、グリーンランドh福岡県の大牟田市にあると思っていたという人もいますよね。
こうした遺跡を「どう生かす」か、みんなで考えていきたいものですよね。