「ブログの時代は終わった」か:米調査(WIRED VISION) - goo ニュースの記事に以下のように書かれています。タイトルは釣りのようです。
ブログ限界論については、日本では3年間にすでに議論されていました。自己表現のプラットフォームは移り変わる:佐々木俊尚 ジャーナリストの視点 - CNET Japan【googleのキャッシュ】に書かれています。この記事に書かれている以下の記述がすべてだと思います。(CNET Japanの佐々木さんのブログから該当記事が消えているので、googleのキャッシュページにリンクしています)
個人が情報を発信して共有するという行為自体は減っていないと思います。一番ホットな場所がブログではなくなったというだけのことでしょう。また「ブログ」という言葉自体があまり聞かれなくなったのは、当たり前のように書いたり読んだりしている人が増えて、わざわざ説明するまでないぐらいに普及したからなのではないでしょうか。
個人の情報発信はトータルでみると以前より活発になっているはずです。それにも関わらずブログが終わったように感じるということは、インターネット全体での個人の情報発信の中でブログが占める割合が減っているのかもしれません。もっとはっきり言えばブログを更新する人の数が減っているのでしょう。
個人の情報発信の主流がブログではなくなってしまった。それでも、現在でもブログを更新し続けている人たちが多くいます。それは、見方を変えれば、ブログを更新している人たち全体の中で、腰を落ち着けて長文でじっくりと自分の意見を伝えたいと思っている人たちが占める割合が増えているということなのではないでしょうか。そういった人たちが占める割合がこれからも高くなっていくのであれば、人数は少しづつ減っていくかもしれないが、ブログ全体の質は向上していくということなのではないかと思います。
ブログはもう頭打ちなのだろうか? CBラジオや木工などのニッチな趣味のように、ゆっくりと時代遅れになっていくのだろうか? 「ブログ」という言葉も、一般的な語彙から外れて、古びた言葉になっていくのだろうか?
(中略)
最近では、従来からあるブログシステムよりずっと簡単な方法が普及している。例えば、大きな人気を集めている『Tumblr』という「ブログ」システムでは、投稿は簡潔なものがほとんどで、画像だけのこともある。また『Twitter』では140文字に限定されており、簡潔に書き、リンクを活用する必要がある。Facebookでも簡単に、写真やウェブ上で見つけた面白いことや自分のいまの気分について、大量にシェアすることができる。
だから、ブログは、衰退しているのかもしれないが、以前よりもっと普及したのだ、と言うこともできるだろう----今まで本当に定義されたことのない「ブログ」という曖昧な言葉の意味を拡大すれば。
ブログ限界論については、日本では3年間にすでに議論されていました。自己表現のプラットフォームは移り変わる:佐々木俊尚 ジャーナリストの視点 - CNET Japan【googleのキャッシュ】に書かれています。この記事に書かれている以下の記述がすべてだと思います。(CNET Japanの佐々木さんのブログから該当記事が消えているので、googleのキャッシュページにリンクしています)
だから「ブログ限界論」を語ろうとするのであれば、それが「ブログというコンテナーの限界」なのか、それとも「インターネットにおける自己表現というコンテンツの限界」なのかをきちんと切り分ける必要がある。
個人が情報を発信して共有するという行為自体は減っていないと思います。一番ホットな場所がブログではなくなったというだけのことでしょう。また「ブログ」という言葉自体があまり聞かれなくなったのは、当たり前のように書いたり読んだりしている人が増えて、わざわざ説明するまでないぐらいに普及したからなのではないでしょうか。
個人の情報発信はトータルでみると以前より活発になっているはずです。それにも関わらずブログが終わったように感じるということは、インターネット全体での個人の情報発信の中でブログが占める割合が減っているのかもしれません。もっとはっきり言えばブログを更新する人の数が減っているのでしょう。
個人の情報発信の主流がブログではなくなってしまった。それでも、現在でもブログを更新し続けている人たちが多くいます。それは、見方を変えれば、ブログを更新している人たち全体の中で、腰を落ち着けて長文でじっくりと自分の意見を伝えたいと思っている人たちが占める割合が増えているということなのではないでしょうか。そういった人たちが占める割合がこれからも高くなっていくのであれば、人数は少しづつ減っていくかもしれないが、ブログ全体の質は向上していくということなのではないかと思います。