撮影、折渡~羽後亀田、2013.10.18、いなほ5号K2編成
北東北が梅雨入りしてから寒いこと!春先のような天気が続いて体調はめちゃくちゃ顔色はカメレオン。しかし、今朝は、三途の川を渡る夢を見て目が覚めましたとはいっても途中まででしたが、川や対岸が凄く綺麗なこと!三途の川を渡ったらおしまいなのですが…。
さて、JR時代の二回目。あまり興味が無かったようなのでやめようかと思いましたがあえて続けます。10年ひと昔というので区切りとして。
2.南秋田運転所(現秋田車両センター)
かくして、南秋田運転所(以下南所と称す)に配属になったわけですが、現場での所属は電車機動検査班。(つまり何でも屋さん)
ところが、当時の所長が、大卒は勉強しろ!の一点張り。現場の作業はさせないとにかく「一日机に座って、マニュアルや関係書類を読んで勉強しろ」というもの。挙句の果てに、サービス残業して勉強しろと!しかし、支社運輸部長は「現場の作業を通じて、自分の目と体を使って様々なことを勉強しろ」と仰っていた。そのつもりでいたが、たまに、技術管理班(故障管理などの総元締め、 現場に走ったり、支社と協力して不具合処置や対策を講じたりする)の補助する程度で、車両も道具も触らせてくれない
だが、新入社員は定期的に運輸部長と会合とかがあり、状況を報告させられる。私は、元々学者肌ではなく職人系の気質なため(勝手にそう思っている)、毎日が苦痛で仕方がなかった。そのため、たまたま運輸部長とうまがあったせいか話をよく聞いてくれた。(この方は、自分が進んで現場に行かないと気が済まない人だった)そしたら、「よしわかった」とすぐに所長に電話し、現場作業をさせるよう命令をしていただいた。そこでようやく電車交番検査班に参加させていただくことができて、ようやく現車を触りながら学ぶことができほっとしました。
が、しかし、そこで待っていたのは、あまりにも酷い大卒バッシング!覚悟はしていたがここまでとは…。班長さんの助けと持ち前の?負けん気で乗り越えました。でも、やはり、車両に触れることは何事にも代えがたく(マニアだなあ)、ただちょっと非力なので慣れるまで大変でしたが。でも、部品を取り換えたり、油まみれやほこりまみれになることも気にならず楽しみました!
だが、ここでも所長の嫌がらせ?があり、作業中に呼び出されることたびたび…。検査班の人が何事?と驚きまくり!例の、時間外の勉強の話。どうやら、数年前に研修に来たH氏と比較し、その先輩と同じにやれというもの。
ところが、私が若かったせいか?自分のやり方で勉強しているからと反発。(家で図面と模型を使って復習していた)所長曰く、「机に書類を並べていないと勉強していない」ような言い分。そこで、私は、「自分のやり方で勉強しているのにそれを認めないのなら結構です! H氏の代わりではないですから。第一私はその人自体も知らないですし、そんなにその人が偉いんですか?」(今なら言えんだろうな…)と捨て台詞。所長は顔を赤らめてものの一言も反論できず。
そんなこんなで、直属上司の助役さんが見かねて、機動検査班に戻してくれて技術管理班の手伝いをしながら現場仕事ができました。そしたら、こちらでは、私の居場所ができるし、皆さん良くしていただいて歓迎していただきました。だって、現場仕事の方が張り切るし、一生懸命汗を流せるし、そんな姿を皆さんが認めてくれたんでないでしょうか?(良く彼らは普通の大卒とは違う、良く働くなあと仰っていた)交番検査班の時も一生懸命やったのですが、とにかく一部社員を除いて大卒を嫌がっていた
そうこうしているうち、所長に懐かない?私を嫌って、約7か月後に土崎工場(現秋田総合車両センター)に追い出しましたとさ。でも、現場仕事は体力も付くし楽しいなあ(後日談ですが、運輸部長と所長は犬猿の仲だったほか、一部社員にも所長は嫌われていました)
次回へ続く…。
注:運転所での検査は、7日ごとの仕業検査(運転前検査)、交番検査(在来線は3か月ごとの、新幹線は1か月ごとの機能検査や指定部品取替えなど)、臨時検査(故障処置や故障対策、軽微な改造など)を行っています。
撮影、前田南~小渕間、2008.5.6
昨日のテレビ朝日の「Jチャンネル」から一言。わかやま電鉄貴志川線のたまスーパー社長の逝去?の報道で、JRからの廃線を受け継いだ・・・とナレーション!はあいくらなんでもそれはないでしょ。元々「南海電鉄貴志川線」を受け継いだのに、何で確認しないのか?プロでしょうが頑張った地元住民の方々に失礼でしょうが!今の日本適当
さて、前置きはこのぐらいにして、さっそく、私がJRで過ごした10年間を綴っていきます。今日は1回目。
1.1994年4月1日入社
入社式は、当時、大宮のソニックシティ―。さすがに高卒と合わせるものだから、1000人強!多さにびっくりしたものです。(田舎者なので)社長は、未だ尊敬する松田昌士氏。(北海道大学出身)司会進行は先輩方。時代は変わったものだと思いました。
入社式の後は、高卒は別行動。大卒である私たちは「大宮の研修センター」(現研究開発センター)にて昼食の後自分たちの足で旧本社(東京駅丸の内口前)へ移動。そこで、短い役員の講義と、「社長との懇親会」!(革新的と思った)
2日目から2週間、大宮の研修センター にて、当然のことながら鉄道の基礎から机上講義やら面接など2分間隔のダイヤで缶詰状態!(無理に2分間隔にしなくても、5分前行動だけでいいと思ったが)この時思ったが、専門に分かれて講義を受けたが、講師が、マニア(嫌な呼称)の私よりわからなくてどうするたかだか115系電車の抵抗制御で説明しきれなくてどうする?鉄道総研の講師でも良かったのでは…。
それに、長時間の受け身の講義は無駄ですね。ほとんど寝てました。私も落ち、目をつけられたものです
最後の極めつけは、箱根の山の中まで行って各班に分かれてロールプレイリングもどきの事をさせられ終了!
15日目からは各支社に研修の旅となり、秋田支社や千葉支社は馬鹿にされたものです。秋田は、「一番の田舎」、千葉は、「国鉄動力車組合員の巣窟」(当時国鉄改革に一番反対しておりまだ活動が激しかった)で危ない。
かくして、当時の人事部の方針で出身大学や出身地に近い場所に配属される(余計なお世話だと思うが)ことになっており、なぜか私は秋田へ。(学校は青森県)いいのか悪いのか…。しかし、この配属が吉と出たか凶と出たかは未だよく解らない…。
秋田支社での研修は、駅業務に始まり、車掌、運転士見習、運転所、工場、設備関係(やたら長い)、びゅうプラザや支社研修を行い、最後は業務研究論文発表会を行い、大宮の研修センターにて数日間研修され、11月に各地へ。一番行きたくなかった南秋田運転所(現秋田車両センター)に本配属になりました研修は長すぎると思いました。高校卒業後一旦就職した身にとっては…。以下次回へと続く。
撮影、十二所駅、2008.4.23
先週の「親との1週間戦争」の疲れと、昨日のなぞの大量の尿量及び下痢により今日はフラフラしています交通事故による後遺障害の診断書を受け取りにもいかなければならないのに…。うーん。郵送してくれればいいのにねえ…。
休んでばかりいるのもなんですので、散歩を少しずつ始めました。でも疲れるんだなあ
友達とも家が前より遠くなってしまったり、休日が取れないなどで孤独な日々を過ごしていますアナログな人間なのでメールとかでは満足できません。
さて、PCの前に座るのも実際辛いのですが、リハビリと思って書いている関係で更新が長くなってますがご了承のほどを。(そんなに読者がいるわけではないから気にすることはないのですが)
そこで、しばらくの間、私がJRにいたころのことを次回から連載?します。(賛否両論あると思いますが)