デンマンのブログ

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欺瞞の温床 PART 1 OF 3

2009-06-09 02:43:35 | 健全な批判
 
欺瞞の温床 (PART 1 OF 3)
 







踏みにじられた在野の功績

1975年、宮城県多賀城市の東北歴史資料館(現・東北歴史博物館)。
岩宿(いわじゅく)遺跡を発見した相沢忠洋(ただひろ)さんが「熱烈な考古学ファン」と紹介された青年と会った。

1949年の発掘調査で日本に旧石器時代があったと証明した岩宿遺跡。
「戦後の考古学史上最大の発見」と評されたその歴史的な石器を、相沢さんはそっと青年の手に置いた。
「青年が手を震わせ、石器を食い入るように見つめていた光景を覚えている」
1989年に亡くなった相沢さんに変わって妻千恵子さんが振り返る。
青年は、捏造発覚から25年前の藤村新一氏だった



納豆の行商で生計を立てながら考古学研究に打ち込んだ相沢さん。
戦後まもない考古学界では、火山灰の赤土層より古い時代の日本列島には、火山活動が盛んで人は住めなかったというのが通説で、赤土層に達すると発掘作業は終わりだった。
世紀の大発見は、先入観念を持たない在野の相沢さんだからこそ可能だった。

相沢さんの発見に初めて注目したのが当時、明治大学大学院生の芹沢長介・東北大学名誉教授だ
助教授だった故・杉原荘介氏を代表する明大グループは「岩宿遺跡が日本の旧石器時代の存在を初めて証明した」と発表したが、学界は黙殺した。
その後、後期旧石器時代の遺跡が次々と見つかり、岩宿遺跡の成果がようやく認められた。

ところが杉原氏の報告書は、相沢さんを「あっせんの労をとってくれた人物」と紹介し、発見者として扱わなかった。
遺跡の「価値を発見」した自分たちの功績の大きさを強調したのだ。
これに抗議して芹沢氏は明大を去り、1963年に東北大へ移った


「相沢は深く傷つき、人間不信に陥った」
千恵子さんは振り返る。
ある講演で、相沢さんは無念さを語った。
「自分は岩宿遺跡と言う未熟児を産み落とした。未熟児だったから専門医に見せたら、専門医は『これは自分の子供だ』と言い出した」

学者と在野研究者との関係は現在も同じだ。
在野の功績が認められるには、遺跡を発見した上で学界の権威の「お墨付き」に頼らざるを得ない。
考古学で在野の功績は大きいが、相沢さんのように名前を残した人はほんの一握りだ。
大多数は生活を犠牲にして考古学に打ち込み、無名のまま埋もれていった。

pp.194-195 『発掘捏造』より
毎日新聞・旧石器遺跡取材班
2001年6月20日発行




『原人ブームと漢字馬鹿 (2009年6月5日)』に掲載



旧石器捏造事件



事件はアマチュア考古学研究家の藤村新一が次々に発掘していた、日本の前期・中期旧石器時代の遺物や遺跡だとされていたものが、全て捏造だったと発覚した事件である。
日本の考古学界最大のスキャンダルとされ、2000年11月5日の毎日新聞朝刊で報じられたスクープによって発覚した。

なお、縄文時代以降では、明確な遺構が地下を掘削して造られているため、土の性格から直ちに真偽が判断可能なので、捏造は不可能である。
火山灰層の年代にのみ頼りがちであったことなど日本の旧石器研究の未熟さが露呈された事件であった。

事件の経緯

「捏造」を行なっていた藤村新一は、2000年11月の発覚当時、東北旧石器文化研究所という民間研究団体の副理事長になっていたが、彼が捏造を開始したのは1970年代にアマチュアとして、宮城県の旧石器研究グループに近づいた時からだった。
彼は、周囲の研究者が期待するような石器を、期待されるような古い年代の地層(ローム層)から次々に掘り出して見せ、その事によってグループにとって欠くべからざる人物として評価され、後に「神の手」と呼ばれる迄になった。
実際「発見」された遺物の殆ど9割方は、まさに彼自身の手によって表面採集されたり発掘されたものであり、他人の手によって発掘されたものは、彼があらかじめ仕込んで置いたものだとされている。
彼が掘り出して見せたり、埋められていた石器は、自らが事前に別の遺跡の踏査を行なって集めた縄文時代の石器が殆どであると考えられている。
但し、それらの遺跡は東北地方のどこかのはずだが、完全に追跡され、突き止められるには至っていない。
捏造された「偽遺跡」は、宮城県を中心とし、一部北海道や南関東にまで及んでいる。

毎日新聞のスクープで指摘されたのは、宮城県の上高森遺跡、及び北海道の総進不動坂遺跡だったが、彼の関わった全ての遺跡について再点検が行われ、彼の関わった「石器」の多くに「発掘時のがじり」ではありえない傷や複数回にわたって鉄と擦過した痕跡である「鉄線状痕」などが認められた。
また一部の遺跡について再発掘が行われ、掘り残されていた捏造石器が発見されるに及び、捏造が確定するに至った。

事件の影響

日本列島の「前・中期旧石器」研究は、そのような古い時代の石器は日本にはないだろうという批判を当初は浴びていたが、藤村の発掘成果によって強力な裏づけを得て、1980年代初頭には確立したと宣言されていた。
捏造発覚前は日本の旧石器時代の始まりはアジアでも最も古い部類に入る70万年前までに遡っていたが、捏造発覚により藤村の成果をもとに築かれた日本の前・中期旧石器研究は全て瓦解し、東北旧石器文化研究所は「学説の根幹が崩れた」と解散に至っている。
さらに捏造遺跡が学会から抹消されるのみならず日本史の教科書の石器に関する記述さえも消されるに及んだ。

また、中国、韓国、北朝鮮といった歴史教科書問題で日本と対立している国々は、国内のマスコミで本事件を大々的に報道し、「日本人が歴史を歪曲しているのが証明された」として、一研究家の問題ではなく日本人の歴史認識そのものに原因があるとの見方を示している

なぜ事件は起こったのか

一部の強力な批判にも関わらず、なぜかくも長期間、謬説がまかり通ったのかについて、深刻な批判と反省が叫ばれた。
日本考古学協会は、事件発覚後直ちに特別委員会を構成して事件の調査にあたり、捏造の断定と2003年5月の報告書刊行をもって特別委の幕を閉じた。

落ち着いてそれらの「石器」や出土状況を観察してみると、火砕流の中から出土するなど、不可解で不自然な遺物や遺跡であった事が理解されるのだが、当の研究グループはそれを無視し続けた。
中には数十キロも離れた遺跡から発見された石器の切断面が偶然一致した、というような信じがたい発見もあった。

また、彼らの目覚しい成果に対して、国指定史跡を認定したり、文化庁主催の特別展に展示されるなど、間接的な応援団がいた事は事件を増幅させた役割としては非常に大きかった。
特に、遺跡の出た東北地方などの多くの自治体が「わが町の歴史は数十万年前にまで遡る悠久の歴史を持つ」として特産品や観光行事作りを進めるなど、町・村おこし運動における歴史的事物の安易な利用が、こういった事件の温床となっていることは否定できない。

本来、人類の普遍的価値遺産として共有されるべき歴史的事物について、その多くが観光資源の観点に偏るかたちで地域住民に認識され、取り扱われてきた現状が、今回の事件発覚によって図らずも明らかになった。

「前・中期旧石器」が隆盛であった当時は批判が難しく、1986年の批判論文以後、再び反論が開始されるのは1998年の1点、及び2000年発覚前の2点に限られる。
1998年以後の批判の要点は、問題の石器資料群が、本来あるべき前期や中期の石器として「おかしい」という批判である。
こうした正当な批判は、新聞社のスクープまで、学界として省みられる事はなかった

なお、日本考古学協会前・中期旧石器問題調査特別委員会最終報告後に、藤村の捏造の範囲は旧石器時代を越え、縄文時代にも及ぶことが明らかにされた。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』




藤村新一さんは“魔が差した”と言っていますけれど、いづれ見つかるとは思わなかったのでしょうか?



思ったでしょう。

それなのにどうして捏造を続けたのでしょうか?

1度やってバレない。。。2度やってもバレない。。。3度やってもバレない。。。こうなったら、やみ付きになってしまうでしょうね。

もう、惰性で捏造を続けたのでしょうか?

そうだと思いますよう。しかも、マスコミが「神の手」なんて言っておだてたりする。だから、藤村さんが続けざまに発見するのを可笑しいと思っても面と向かって批判する研究者が居なくなってしまったのでしょうね。
 

学問は、違う考え方を戦わせて前進する

聞き手:(橋本達明・毎日新聞東京本社編集局長) p.214
竹岡(俊樹)さんが1998年に上高森遺跡について否定的な論文を書いています。
1986年にも小田静夫さんが宮城県の前期旧石器時代の遺跡から出土した石器や年代について批判的な論文を書いていましたが、大きな論争にならなかったのはなぜですか?

佐原真氏:(国立歴史民俗博物館長)
学問は、違う考え方を戦わせて前進するものです。
どの時代のどの問題でも、違う意見だらけです。小田さんが反対していたのは僕も知っていました。
ただ、多くの旧石器の専門家が認めていて発見が重なっていけば重なっていくほど「おー、おー」と思っちゃったわけですよね。

竹岡俊樹氏:(共立女子大学非常勤講師)
若い研究者は特にね、ものを言えなくなるわけですようね。
権威のある方々が周りにいて、真ん中に藤村さんがいて、という構図ですよね。
どんどん発見されていくたびに、次々と承認されていく。
そういう状況で、いろいろとうわさ話はあっても、文章化されることはほとんどありませんよね、怖いから。

 。。。

馬場悠男氏:(国立科学博物館人類研究部長)
一般的には、ここのお二人は横文字の論文を読むのは得意ですが、ほとんどの考古学者は横文字の論文を読まないし、自分で書かない。国際化されていないことが一つの大問題ですね

馬場悠男氏:(シンポジウムから p.244)
考古学全体として、年功序列と慎み深い意見発表で、先輩の業績を批判しないことがあります。
批判すると、先輩から恨まれてしまうとか、お前が言っていることは生意気だとかになってしまうものですから、私たち人類学の分野でもなかなかできませんでした。
ところが、最近私も割とちゃんとした職を得たものですから、批判させてもらうこともあります。
うっかり若いうちに(批判を)やると、まともな職につけなくなる可能性は大いにあったわけです。

批判するかしないかは自由ですが、今までの常識とは整合しない「大発見」によって、列車「前・中期旧石器号」が断崖絶壁に向かってばく進している場合には、手をこまねいてよいのだろうか。(デンマン注: いや、批判すべきだ!
少なくとも列車から降りて大声で叫ぶ必要があろうし、できればポイントを切り替えるなり、前に出て止める工夫をすべきでしょう。
しかし、そういうことをした考古学者はほとんどいなかった。
格好よさそうだから列車に乗ってしまったと言うのは、節操がないと批判されてもやむを得ないでしょう。
一番ひどいのは、列車に乗って騒いでいたのに、乗っていなかったような知らん顔をしている。
これは恥を知るべきだと思います。

断崖絶壁に向かっていたのに気づかなかったのはなぜなのか。
まず、考古学発掘調査研究の二重構造性です。
警察組織でキャリア組みと現場とでやっていることがぜんぜん違うのと同じで、偉い先生方は普通、研究室にいらっしゃって、現場で一生懸命発掘を担当している人たちのよい業績だけをちょっと取って、自分の研究論文もしくは概説を書く。
そういうことによっていわばオピニオンリーダーになってる方がいらっしゃる。
そういう方は、実は現場をご存じない。
若い時はもちろん現場に行っていたのでしょうけれど。
現場のにおいみたいなものを感じられないから、今回みたいなとんでもないことが起きた時に気づかなかったのでしょう。

pp.214-245 『発掘捏造』より
毎日新聞・旧石器遺跡取材班
2001年6月20日発行


どうして、デンマンさんはこの座談を取り上げたのですか?

要するに批判することは大切ですよう。批判しないと、いつの間にか無理が通ってしまう。欺瞞が見過ごされてしまう。

どのように。。。?

竹岡氏が次のように言ってますよう。

権威のある方々が周りにいて、

真ん中に藤村さんがいて、

という構図ですよね。

どんどん発見されていくたびに、

次々と承認されていく。

そういう状況で、

いろいろとうわさ話はあっても、

文章化されることは

ほとんどありませんよね、怖いから。


つまり、

無理が通れば道理が引っ込む

だから、ますます批判する人がいなくなる。

批判のない所に進歩なし!

批判することは大切なことだとデンマンさんは強調したいのですか?

その通りですよう。

でも、一人ぐらい藤村さんに面と向かって批判する人が居ても良かったと思うのですけれど。。。どうして、そのような人が現れなかったのでしょうか?

だから、竹岡氏が言った通りだと思うのですよう。藤村さんを信用して庇(かば)う人が周りに居たのですよう。

 (すぐ下のページへ続く)



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