デンマンのブログ

デンマンが徒然につづったブログ

栗餅(PART 1)

2019-02-01 11:17:36 | 食べ物・料理・食材
 

栗餅(PART 1)

 


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デンマンさん。。。、どういうわけで栗餅というタイトルにしたのですか?


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真由美ちゃんは栗餅を食べたことある?

栗の入ったお餅は、子供の頃に食べたことありますわ。。。 美味しかったことを覚えています。。。

僕も食べたことはあるけれど、圧倒的にアンコの入った餅の方が普通だよねぇ~。。。 あのねぇ~、バンクーバー市立図書館で借りていた本を読んでいたら次の箇所に出くわしたのですよ。。。



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「あっ栗餅。 栗餅いいますのは栗の入ったお餅。 大福の餡に栗が入っております。 東京にはございませんか。 こちらでは新栗の季節には、どこのお菓子屋さんでも作ります。
それは気がつかないことをいたしました。 栗餅の方がよろしかったようですね。 あとで栗餅も買いにまいりましょう」と、大層恐縮されてしまったので、
私はあわてて
「気になっただけ、 お煎餅の方が好きです」と弁明したが、青信号に変わり、いっせいに歩きはじめたため、先生にはよく聞きとれなかったようである。

 (中略)

恩師にあのようにお金を使わせてはならない。
今日はお酒を飲んではならぬ。
御飯も一番安いのの次ぐらいのを頂こう。

 (中略)

「だいたい、おかあさんがいけない。 栗餅の質問をはじめたときから、いけないなあと心の中でわたしは思っていたんだ。
おかあさんの質問はずっと食物のことばかりなんだから。 交差点で金色の看板は何ですか、と平然と質問したときには、わたしは驚いて呆れたんだ。
あんなことを質問すれば、そこに行きたい、そこで何か買ってください、と言っているのと同じだと思う」

(武田百合子:作 随筆家 1925年生まれ 武田泰淳の妻)

 

(注: 赤字はデンマンが強調。
読み易くするために改行を加えています。
写真はデンマン・ライブラリーより)




29-35ページ 『京都好き』
編者: 早川茉莉
2016年5月20日 第1刷発行
発行所: 株式会社 PHP研究所




こちらでは新栗の季節には、どこのお菓子屋さんでも作ります、ということだから京都の人は栗餅をけっこう食べているのですよ!

 


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そうでござ~ますわよう。。。

あたくしは栗餅が大好物で

ござ~ますわァ~。。。

新栗の季節には、お菓子屋さんに

走って行って一番に

食べたものですわよう!

うふふふふふ。。。


 



京都に住んでいる卑弥子さんも、このように言ってましたからねぇ~。。。



。。。で、デンマンさんも京都に行って栗餅が食べたくなったのですか?

いや。。。 そういうことではないのですよ。。。 東京に住んでいた武田百合子さんが、京都に行って「栗餅あります」という看板を見れば、興味を持つのは当然だと思うのです。。。 僕も、そういう看板を見れば おそらく同じような質問をするでしょう。。。 でも、案内する京都人が、そのことを耳にすれば、「栗餅の方がよろしかったようですね。 あとで栗餅も買いにまいりましょう」と言うと思うのです。。。 

そうかもしれませんわねぇ~。。。

おそらく、その会話を耳にした旦那の武田泰淳さんが、「愚かな質問をしたものだ」とあとで百合子さんに話したのでしょう!? 実は僕も、京都ではないけれど、同じような経験をしたことがあるのです。。。

栗餅のことで ですか?

いや。。。 多佳子・叔母が蕎麦が好きなのですよ。。。 それで蕎麦屋に行くことになっていたのだけれど、たまたま本場のイタリアンパスタを食べさせるレストランがあったので、「あれっ。。。 こんなところに本場のパスタを食べさせるレストランがあるじゃん」と、つい言ってしまった。

 


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そしたら、デンマンさんは蕎麦よりもパスタの方がいいのだと察して、叔母さんは蕎麦屋じゃなくパスタ専門のレストランに入ったのですか? 



そうなのですよ。。。 その時、僕は別にパスタを食べたいと思ったわけじゃないけれど、叔母にしてみれば、「お蕎麦よりもパスタが食べたくて、あんな事を言ったのだわ」と解釈したようなのです。。。

 


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つまり、デンマンさんも同じような経験をしたことがあるので、上の箇所に目が留まって記事で取り上げる気になったのですか?



いや。。。 それもあるけれど、上の文章を読んで僕はなんとなく惹かれたのですよ。。。 それで、この百合子さんという人は、どういう人なんだろうか?。。。 そう思ったのです。。。 そして調べてみた。。。


武田 百合子

 


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1925年9月25日 - 1993年5月27日

 

作家武田泰淳の妻で、武田泰淳の死後に、泰淳と過ごした富士山荘での日記『富士日記』を出版し、処女作にして高い評価を受ける。
その後、寡作ながら、結晶度の高い随筆作品を発表して多くの熱狂的なファンを得る。
娘は写真家の武田花。

各界に親交が多く、埴谷雄高、深沢七郎、村松友視、大岡昇平、色川武大、吉行淳之介、辻邦生、いいだもも、女優加藤治子などと親しかった。

 

略歴

1925年(大正14年)9月25日、神奈川県横浜市で代々の富豪、鈴木家の三女として生まれる。
1932年母、あさの死去。以後、大叔母みつが母代わりになる。小さい頃から琴や三味線を習っていた。

1943年(昭和18年)、横浜第二高等女学校(現・神奈川県立横浜立野高等学校)を卒業。
在学中に同級生たちと同人誌『かひがら』に参加し、詩や文章を投稿する。
当時の文章は、既に後の「武田百合子」の片鱗を感じさせる、独特の感性のものだった。

また、室生犀星が選者の新聞の詩歌欄に投稿して、入選。

兄の同級生であった、後の劇作家八木柊一郎と親しい関係になる(八木が1946年に執筆した短編小説「放心の手帖」にも、百合子をモデルとしたキャラクターが登場している)。

卒業後は図書館に勤務。
1944年に父、精次死去。
1945年5月、横浜大空襲により自宅は全焼。

戦後は長兄・新太郎のもとに同居。
鈴木家は「不在地主」であったため、1947年の農地改革で没落する。
百合子は行商や海音寺潮五郎の秘書などを転々とする。

この頃、同人誌「世代の会」に参加。
会員には、遠藤麟一郎、矢牧一宏、小川徹、吉行淳之介、中村真一郎、八木柊一郎、中村稔、いいだもも等がいた。
彼等との親交は晩年まで続き、小川徹の本の刊行に協力するなどしている。

出版関係の仕事をしたいと、出版社・昭森社に就職するが、社長森谷均が経営していた喫茶店兼酒場「ランボオ」の女給にされる。
ランボオ(アルチュール・ランボーに由来)は作家達が数多く集まる場であった。
ここで百合子は武田泰淳と出会う。

1948年鈴木家を出て泰淳と同棲する。
妊娠、堕胎を繰り返し、4回目の堕胎の際は気絶した。

これ以上繰り返せば命が危ないといわれたため泰淳も結婚を決意し、1951年10月31日長女・花子を出産。
同11月、出生届と共に結婚。

1956年、自動車運転免許を取得。ただし、泰淳にだまって教習所で出かけていたので、泰淳は「浮気でもしているのか」と心配したという。

1971年11月27日、泰淳が脳血栓で入院。右手に障害が残ったため、これより百合子が原稿清書や口述筆記を務め、『めまいのする散歩』『上海の蛍』などを刊行させる。
1976年10月5日泰淳が胃癌及び肝臓がんで死去。

1993年5月7日、北里大学病院に入院。
同27日、肝硬変で死去。享年67。
百合子が残した日記、原稿、メモ、手帖などは「焼却するように」と遺言があったため、花が処分した。

翌1994年から『武田百合子全作品』全7巻が刊行された。

 

「鈴弁事件」及び「未来の淫女」について

百合子の祖父は、大正期の米騒動時代に「鈴弁事件」という事件で殺害された「悪名高い」人物だった。
外米の輸入業者だった祖父は、農商務省の役人に金品を与えて情報を得ていたが、金銭トラブルで彼に殺害された。

だが、殺害犯が「米価をつりあげた悪人を、義憤にかられて殺した」と裁判で証言したため、祖父は「悪人」として有名になってしまった。
そのため、鈴木家では「鈴弁事件」はタブーとなっており、また百合子も「鈴弁の孫」と呼ばれるのを嫌っていた。

ただし、百合子の父・精次は祖父の娘と結婚して婿養子になり、妻が死去したため、百合子の母・あさと再婚した。
そのため、百合子と祖父には血縁関係はない。


百合子が武田泰淳と交際中に、「自分は鈴弁の孫だ」と伝えたところ、泰淳はそれに非常に興味を抱き、百合子をモデルとした短編「未来の淫女」「続未来の淫女」を1949年に発表した。
ちなみにこの作品の中では、百合子(にあたる人物)は祖父と血縁関係があるように書かれている。

この小説は、「鈴弁事件」をタブーとしていた鈴木家の中で大問題となり、百合子は泰淳にその旨を伝えた。
また、まだ学生だった百合子の弟・修も泰淳に会い、「あなたには人民の苦労はわからない」と抗議した。
そのため、この作品は泰淳の全集類等には収録されず、幻の作品となっている。

単行本『未来の淫女』は古書値も高く、入手困難な本となっている。
だが、旧版河出文庫の『異形の者』に続編とともに収録されており、この本の入手は比較的容易である。
他の武田泰淳作品「もの食う女」(1948年)「メサの使徒」(1950年)等にも、百合子をモデルとした女性が登場する。




出典: 「武田百合子」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』




。。。で、デンマンさんは、さらに興味をそそられたのですか?



僕の母親は大正11年生まれ。。。 つまり、百合子さんよりも3歳年上なのですよ。。。 僕の母親のことを思い出しながら上の略歴を読んでみると、まるで二人の間に、戦前と戦後の大きな隔たりを感じるような次元の違いを感じるのです。。。 言ってみれば、百合子さんはかつて“モガ”と言われたような女性ですよ。。。 それに対して、僕の母親は地方の田舎の農家で生まれ育った、モンペ姿が似合うような純朴な女というイメージです。。。

百合子さんとデンマンさんのお母さんは、世代が同じでありながら二人は、まるで世代が全く違うような環境で育った印象を持ったのですか?

そういうことです。。。 しかも、百合子さんとは直接関係ないのだけれど、この「鈴弁事件」というのが、なんともすごいのですよ。。。


鈴弁殺し事件


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鈴弁殺し事件は、1919年(大正8年)6月に新潟県で発覚したバラバラ殺人事件。
日本初のバラバラ殺人事件とされる。
なお、事件に含まれる「鈴弁」は被害者の通称だが、本項では被害者・被疑者名は伏せて符号で表記する。

 

発端

被害者・鈴弁ことAは外米輸入商と高利貸しを兼ねており、米の買い占めで財をなしたが、更なる利益を求めて農商務省外米管理部の技師であるBに接触。
Bからリークされた情報を基に1918年米騒動では巨額の利益を得る一方、Bが渡欧する際には次男を同行させてあらゆる利便を供与した。
しかしBはこれに飽き足らず、将来の立身出世の軍資金づくりを目論んで米穀投機に手を出して失敗、巨額の借金を抱えてしまっていた。

ちょうどこの時期、米騒動直前に公布された外米管理令によって、外米取扱い商の許可を受けなければ外米輸入ができないことになったため、AはBに対し、この許可が降りるよう便宜を取り計らうよう要請していた。
Bはこれに乗じて援助を引き出すべく、後輩Cを主管局長であると騙してAに面会させ、リベートとして5万円を受け取ることに成功した。
しかしまもなく、ニセ主管局長のからくりが露呈してAは上記5万円の即時返還を迫ったものの、既にBはこれを借金の穴埋めなどでほとんど使ってしまっていた。
最初のうちはAを無視する態度でいたが、業を煮やしたAが関係を暴露する旨を言い出すに至り、追い詰められて殺害を決意した。

 

殺害・遺棄

大正8年5月31日の夜、Bは家族を外出させた上で自宅にAを招き、酒席でもてなした隙をついて共犯の後輩Cと共にAをバットで殴打した上で絞殺、一旦Aの遺体を物置に隠し、翌1日の夜に再び家族を外出させてからAの遺体を切断、2つのトランクに分けた。
更に従兄のDを呼び出して遺体の投棄を頼んだ。

6月2日にCとDは鉄道でBの故郷に近い長岡市に向かい、船を出させて信濃川に遺体の入ったトランクを石を結びつけた上で投棄した。
また、Cはまず3日に長岡からBの異母兄宛に電信を打ち(この際異母兄は事情を知らされておらず、人違いだと思っていた)、さらに5日に青森からAを装って電信を横浜にあるAの自宅宛に打つ隠蔽工作を行った。

 

発覚

投棄から4日経った6月6日の午前9時頃、三島郡大河津村(現・長岡市)で牛乳配達人が信濃川の岸辺に浮かんだトランクを発見したことで、事件が発覚した。
新潟県警察部の捜査でまもなく長岡駅到着以後の足取りが判明、Bの異母兄宛に電信を打った記録からBの関与が疑われ、警視庁にBの取り押さえを依頼した。

この電報が到着する前の6月8日午前11時頃、BはCを同道して、同窓であった正力松太郎警視庁監察官を訪ね、犯人として引き渡すことで、身代わり工作を図った。
しかし供述内容は、妙に詳細な部分と曖昧な部分が混在しており、警視庁ではB自身の追及を検討し始めていたところに新潟県警察部からの電報が届いたことから、直ちにBを連行して取り調べに入った。

当初は農商務省高等官で正力監察官の同窓生という地位を誇って傲然と応対していたが、Cの供述内容の矛盾や新潟県警察部の捜査内容から追及されて返答に窮し、ついに自供に至った。

 

裁判・処罰

殺害犯側は「米価をつりあげた悪人を、義憤にかられて殺した」と証言したため、被害者のAは死後に世間から「悪人」として認知されるようになった。
代々の地主でもあり富豪であったAの家はその後長らく世間から責められることとなった。

なおAの孫娘にあたるのが随筆家として有名な武田百合子であるが、実際にはAの娘の婿養子が、妻の死後に再婚してもうけた娘であるため、Aとの血縁関係はない。

BとCは殺人および死体遺棄、Dは死体遺棄で起訴され、12月2日、Bに死刑、Cに懲役15年、Dに懲役1年6ヶ月の判決が言い渡された。
いずれも控訴し、1920年5月28日、BとCは第一審と同様、Dは懲役1年執行猶予3年の判決を受けた。
Bは更に上告したが却下され、1921年(大正10年)4月2日、死刑が執行された。




出典: 「鈴弁殺し事件」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』




今も昔も、根性の悪い役人と拝金主義の商人が企んで悪いことをする事件がなくならない。。。



最近も、そういう事件があったのですか?

あったでしょう!

たとえば。。。?

ノーパンしゃぶしゃぶ事件とか。。。


ノーパンしゃぶしゃぶ事件


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大蔵省接待汚職事件とは、1998年(平成10年)に発覚した大蔵省を舞台とした汚職事件である。
ノーパンしゃぶしゃぶ事件とも言われている。

官僚7人(大蔵省4人、大蔵省出身の証券取引等監視委員会の委員1人、日本銀行1人、大蔵省OBの公団理事)の逮捕・起訴に発展。
起訴された官僚7人は、執行猶予付きの有罪判決が確定した。
この責任を取り三塚博大蔵大臣と松下康雄日本銀行総裁が引責辞任し、財金分離と大蔵省解体の一つの要因となった。

第一勧業銀行総会屋利益供与事件における、大蔵省の検査の甘さが総会屋への焦げ付き融資拡大になった問題が浮上したことがきっかけで、東京地方検察庁特別捜査部(東京地検特捜部)は捜査を開始(第一勧業銀行総会屋利益供与事件)。
特捜部は過去の強制捜査や任意提出で都市銀行、長期信用銀行、大手証券会社などから業務日誌や接待伝票を把握した。

1998年1月18日、東京地方検察庁特別捜査部は日本道路公団の外債発行幹事証券会社の選定に際し、野村證券から贈賄があったとして、公団経理担当理事(大蔵省OB)と、野村證券の元副社長らを贈収賄罪の容疑で逮捕。

1月26日、東京地検特捜部はあさひ銀行・第一勧業銀行・三和銀行・北海道拓殖銀行から収賄を受け検査日程を漏らしていたとして、大蔵省検査官2名を逮捕。

3月5日、東京地検特捜部は、大蔵官僚2名を野村証券への便宜供与と収賄にて逮捕。

3月11日、東京地検特捜部は日本興業銀行・三和銀行から収賄を受け機密情報を流出させたとして、日本銀行証券課長を逮捕。

4月27日、大蔵省は民間金融機関に関する内部調査の結果を公表し、銀行局審議官の杉井孝を停職、証券局長の長野庬士らを減給とする等、計112人(停職1人・減給17人・戒告14人、訓告22人、文書厳重注意33人、口頭厳重注意25人)に対する処分を行った。

逮捕された者

■日本道路公団 経理担当理事(大蔵省OB)
■大蔵省 証券局総務課 課長補佐
■大蔵省 証券取引等監視委員会 上席証券取引検査官
■大蔵省 金融検査部金融証券検査官 室長
■大蔵省 金融検査部管理課 課長補佐
■日本銀行 営業局証券課長

自殺者

■大蔵省 銀行局 金融取引管理官
■日本銀行理事(1998年5月2日)
■第一勧業銀行元頭取(元会長) 宮崎邦次




出典: 「大蔵省接待汚職事件」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』




結局、悪い官僚と悪徳商人がいるので、日本がなかなか住みよい国にならない、ということが言いたいのですか?



いや。。。 それもあるけれど、やっぱり栗餅が食べたくなったのですよ。。。 だから、今週末にチャイナタウンに行って栗を買ってくるから、真由美ちゃんに栗餅を作ってもらいたいわけです。。。

要するに、このことを言うために栗餅を取り上げたのですか?

そうですよ。。。 悪い官僚と悪徳商人の事件を栗餅を食べている間だけでも忘れて、幸せを味わいたいわけです。。。 どうですか?

分かりましたわァ。。。 今週末にでも栗餅を作ってみますわ。



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 (すぐ下のページへ続く)




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