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ヒトラーの姪 (PART 1)

2016-03-09 13:00:08 | 世界の神話・西洋史・オリエント史・世界史

 

ヒトラーの姪 (PART 1)

 


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デンマンさん。。。 急に どうして“ヒトラーの姪”について語り合うのでござ~ますかァ~?


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卑弥子さんは“ヒトラーの姪”が嫌いなのですか?

嫌いも何も、あたくしはヒトラーに姪がいたことを知りませんでしたわァ。

あのねぇ~、実は、ライブドアの僕の『徒然ブログ』のアクセス解析をしていたら、次のようなリストに出くわしたのですよ。


(liv60309b.png)

『拡大する』



これは3月1日から9日までの「リンク元URL」のリストですよ。。。 赤枠で囲んだ 28番に注目してください。



あらっ。。。 Yahoo!で画像検索して デンマンさんの『徒然ブログ』で『ん?ヒトラーはベジタリアン?』を読んだネット市民が 3人いたということでござ~ますわねぇ~。。。

そういうことです。。。


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『ん?ヒトラーはベジタリアン?』



。。。で、上の28番のリンクをクリックすると どのような画像が検索結果に出てくるのでござ~ますか?



卑弥子さんのためにソフトカメラで撮っておいたのでここに貼り付けます。。。 じっくりと見てください。


(yah60309a2.png)


『拡大する』

『現時点での検索結果』




あらっ。。。 たくさんの違う女性が出てくるではありませんか! どの女性がヒトラーの姪なのでござ~ますか?



①番の写真はエヴァ・ブラウンですよ。。。 ②番は横顔ではっきりしないけれど、たぶんヒトラーの姪です。。。 ③番、⑦番、⑩番もヒトラーの姪です。。。

⑥番は。。。?

エヴァ・ブラウンですよ。

つまり、上の写真はすべてデンマンさんが記事の中で使った写真なのでござ~ますかァ~?

いや。。。 僕はじっくりと上の写真の一枚一枚を眺めたのだけれど、僕が記事の中で使った写真とは、どこかが違っているのですよ。

でも。。。、でも。。。、デンマンさんの『徒然ブログ』で『ん?ヒトラーはベジタリアン?』を読んだネット市民は上の写真のどれかをクリックして記事を読んだのでしょう!?

そういうことです。。。

。。。ということは、上の写真のどれかは間違いなくデンマンさんの記事に中で使われていたということではござ~ませんかァ!

そういうことなのですよ。。。 だから、僕も試しに上の写真を一つづつクリックしていったのです。。。 でもねぇ~、トップの列の写真を すべてクリックしたのだけれど、『徒然ブログ』の記事は出てこない。。。 すべての写真をクリックするのは時間がかかりすぎるので、次のように画像検索したのですよ。。。 その検索結果を見てください。


(yah60309c.png)


『拡大する』

『現時点での検索結果』




『徒然ブログ』のURL (blog.livedoor.jp/barclay1720) を付け足して検索したのですよ。。。 こうすれば、僕のブログの中で使われた写真が出てくるはずです。 左上の赤枠で囲んだ写真に注目してください。



あらっ。。。 この写真もヒトラーの姪なのでござ~ますか?

いや。。。 この写真はヒトラーの一番若い秘書ですよ。。。 この写真には見覚えがある。。。 なぜなら、僕が記事の中で使った写真だからです。。。 この写真を見て、⑧番の写真をクリックして僕のブログにやって来たことが判ったのですよ。


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『拡大する』

『現時点での検索結果』




。。。で、上の⑧番の写真をクリックするとデンマンさんが書いた記事が出てくるのでござ~ますか?



そうです。。。 ⑧番の写真をクリックすると次のページが出てくる。


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赤枠で囲んだリンクをクリックすると次の記事が出てくるのですよ。


(liv40305e.png)

『実際の記事』



あらっ。。。 先ほど紹介された記事『ん?ヒトラーはベジタリアン?』とは違っていますわねぇ~。



そうです。。。 実は、2014年の3月5日に投稿した記事『えっ、ヒトラーはベジタリアン?』がオリジナルなのですよ。。。 『ん?ヒトラーはベジタリアン?』は2015年3月17日に再度投稿したものです。

。。。で、ヒトラーの姪というのはどのような女性だったのでござ~ますか?

次のような女性だったのですよ。


ゲリ・ラウバル


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(1908年6月4日 - 1931年9月18日)

ゲリ・ラウバルは、アドルフ・ヒトラーの異母姉アンゲラ・ヒトラーの第二子で、ヒトラーの姪にあたる。
ゲリはニックネームで、本名はアンゲリカ(Angelika Maria Raubal)、もしくはアンゲラ(Angela Maria Raubal)とも表記される。

兄のレオ、妹のフリードルの三人兄妹であった。
8歳の時に父親が死亡し、母親の手で育てられることになった。
その後、母親がヒトラーの身の回りを世話するようになったため、ゲリは叔父と緊密な生活を送ることになる。
1928年にはヒトラーが別荘ベルクホーフを入手すると、ゲリは母親、フリードルとともに住居するようになった。

突然の死

1931年9月にはオーストリア人の画家と交際するようになったが、ヒトラーは姉アンゲラと協力し、二人を別れさせた。
9月半ば、ゲリがウィーンに行って間もなくすると、ヒトラーからミュンヘンにあるアパートに帰ってくるように命じられた。

しかしゲリが帰ってくると、ヒトラーはニュルンベルクでの幹部会のためにすぐ出発することになっていた。
「それでは帰ってきても何にもならない」とゲリは激怒した。

9月17日、ヒトラーとゲリは二人だけの昼食の席で激しい口論をした。
ゲリは明らかに興奮しており、ヒトラーがニュルンベルクに向かうために出発した後、「私とおじさんの間には共通点が何もないわ」と家政婦に告げた。

この後、家政婦の一人アニー・ヴィンター夫人はゲリが紙を4つに破く姿を目撃した。
ヴィンター夫人があとで紙をつなぎ合わせてみると、それはエヴァ・ブラウンからヒトラーへのラブレターであった。

ゲリは邪魔をしないようにと言い残すと、部屋に閉じこもった。
ヴィンター夫人は帰宅し、もう一人の家政婦ライヒェルト夫人とその娘が宿泊した。
夜中、ライヒェルト夫人は何か鈍い物音を聞いたが、気にせずそのまま就寝した。

翌9月18日の朝、起きてこないゲリを心配したライヒェルト夫人は、マックス・アマンに呼んでもらった錠前屋にカギを外させて中に入った。
そこで夫人が見たものは、胸から血を流して倒れていたゲリと、傍らに転がる拳銃であった。
弾丸は心臓を貫通しており、すでに死亡していた。

その頃ヒトラーは、ホフマンとともに自動車でニュルンベルクに向かっていたが、ホテルのメッセンジャーボーイが「ホテルに電話が入っている」と連絡してきたため、ホテルに戻った。
ホテルに電話をかけてきたのはアマンから連絡を受けたルドルフ・ヘスであり、ゲリの異変を告げた。
ヒトラーらは猛スピードでミュンヘンに戻ったが、すでに遺体は警察によって運び出されていた。


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死にまつわる論議

ゲリは遺書を残しておらず、またヒトラーが有名な政治家であったために、9月20日に新聞がゲリの死を報じ出すと、様々な解釈が行われた。
ミュンヒナー新報は「歌手としての自信を喪失したための自殺」と推測した」。

ドイツ社会民主党系の日刊紙ミュンヒナー・ポスト紙はゲリとヒトラーが頻繁に口論しており、ゲリの遺体には複数の打撲痕があり「鼻が折られていた」という長い記事を掲載している。
ヒトラーの側近者達は「夜中に物音を聞いて慌てて胸を撃った」か、「拳銃の手入れ中に暴発した」事故であると主張した。

エヴァ・ブラウンは後にヒトラーから聞いた話として、「ゲリは胸を撃ったのではなく、布で包んだ銃を口に入れて発射した」と記録している。
またヒトラーの異母兄アロイス・ヒトラーの妻であり、ウィリアム・パトリックの母親ブリジット・ダウリングは、ゲリがリンツのユダヤ人芸術家と交際して妊娠したので自殺したと述べている。
ただしこの妊娠説はヒトラーの又従兄弟に当たるハンス・ヒトラーが否定している。

また、当時のバイエルン州法相フランツ・ギュルトナーはヒトラーの支持者であったために、彼が真相を隠蔽したのだという噂も流れた。
しかし、ニュルンベルクに向かっていたヒトラー自身にはアリバイがあった上に、殺害場所にヒトラーのアパートを選ぶのはあまりに不自然であるとして、トーランドや児島襄は自殺と結論している。

ヒトラーへの影響

事件当日は土曜日であったため、新聞記事になるのはまだ先であったが、すでにヒトラーがゲリを殺したなどの様々な噂が流れていた。
テゲルンゼーにあるアドルフ・ミューラーの別荘に姿を隠したヒトラーは目に見えて憔悴しており、ハンス・フランクに「恐るべき中傷キャンペーンに葬り去られるかと思うと、もう新聞も読む気がしない。以後政治から足を洗って、公の場には顔を出さないようにしたい。」と告げるほどであった。

側近の運転手ユリウス・シュレックは自殺を防ぐためにヒトラーの拳銃を隠した。
ヒトラーは食事も取らずに2日間も歩き回った。

9月20日、ゲリの埋葬がウィーンで行われた。
ヒトラーはオーストリア政府に入国を禁止されていたために葬儀に参列できなかった。
近親者のほかエルンスト・レーム、ハインリヒ・ヒムラー、ミューラーらが立ち会った。

しかしその日の深夜、ヒトラーは密かに自動車でオーストリアに潜入し、ゲリの墓に参った。
その後、ヒトラーは再び政治について語りだし、1933年までに政権を取ると決意を示した。

ヘルマン・ゲーリングら党幹部は「我が総統の胸はドイツで充満している。一人の女の死の痕跡が占める余地はない」と安堵したが、一両日後の朝、朝食の席でヒトラーはハムを食べることを拒否した。
「いわば死体を食べるようなものだ!」
以降ヒトラーは、レバーダンプリングのほか、一切の肉を食べることを拒否した。


若かりし頃のヒトラーには芸術家になる希望があり、政界に入った後も思い出したように絵を描くことがあった。
戦火を逃れた彼のヌードスケッチのうちの少なくとも一つはゲリをモデルとしたものである。




出典: 「ゲリ・ラウバル」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』



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