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小間物屋

2024-03-15 04:03:06 | 日本人・日本文化・文学論・日本語
 

小間物屋

 


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デンマンさん、。。。今日は小間物屋さんのお話でござ〜ますかァ~?


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そうです。。。卑弥子さんも小間物屋さんにはお世話になっているでしょう?

あたくしが、どういうわけで小間物屋さんにお世話になっているのでござ〜ますかァ〜?

卑弥子さん。。。惚(とぼ)けないでくださいよう。。。京都の卑弥子さんの家に一月に一度やって来る行商人の小間物屋さんに、最近、人気の張形(はりがた)を注文したでしょう!?

 


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いったい、いつ頃のお話をしているのでござ〜ますかァ〜? 行商人の小間物屋さんなんてぇ〜、江戸時代のお話ですわァ〜。。。あたくしの家には、そのような行商人などやってきませんわよう。。。それに、あたくしは張形など注文した覚えはござ〜ません。。。失礼しちゃうわああああァ〜!

 


張形

 


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鼈甲(べっこう)製の張形: 日本では江戸時代に大奥で使われていたとされる。
中が空洞になっており、湯に浸した綿を詰め、人肌に温めて利用したという。


 

記録に残る日本最古の張形は、飛鳥時代に遣唐使が持ち帰った青銅製の物が大和朝廷への献上品に含まれていたという記述があり、奈良時代に入ると動物の角などで作られた張り形が記録に登場している。

江戸時代に入ると木や陶器製の張り形が販売され一般にも使われ始めた。大
奥など男性禁制の場において奥女中が性的満足を得るために使用する例も見られた。

江戸時代には陰間もしくは衆道という男色の性文化が存在し、キリスト教的文化圏と違って肛門性愛に対するタブーが存在しなかったため、女性用だけでなく男性が自分の肛門に用いることもあった。
明治に入ると近代化を理由に取り締まり対象となり、多くの性具が没収され処分された。

売春そのものは禁止されていなかったために、性風俗店での使用を前提とした性具は幾度も取り締まられながらも生き残っていった。
しかし終戦を迎えた1948年の薬事法改正から厚生大臣の認可が必要となった。

そのためそれまで認可されていない性具は販売が不可能となった。
そこで業者は張形に顔を彫り込んで「こけし」もしくは「人形」として販売を行なうこととなった。

そのため日本の性具は人、もしくは動物の顔が造形されるようになった。
そのため形状の似ている「こけし」という名称が使用された。

また電動式のものは「マッサージ器」もしくは「可動人形」「玩具」として販売されている。
インターネットの発達にともない規制の少ない海外製品も個人で購入できるようになったために、現在では顔のあるものは減ってきており、「ジョークグッズ」の一種として扱われることが多い。

 

信仰の対象

日本では特に男性外性器の形のものをさすことが多い。
陽物崇拝では、子孫繁栄を願ったお守りとしても用いられた。
現在の日本でも、木製の巨大な男性器像が神社に祭られている場合がある。

たとえば神奈川県のかなまら祭は男根を模した神輿が練り歩く奇祭として知られ、毎年4月第一日曜日に行われている。
日本国外でもよく知られ、国内外から、梅毒やエイズの等の性病の難を避ける祈願で観光客を集めている


この他にも地域信仰で体の悪い所(手足や耳・鼻といった部分)を模した木製の奉納物を神社に収める風習も見られ、古代のアニミズムにその源流を見出す事ができる。
これらの人体の模造品は、その機能を霊的なものとしてシンボル化したり、または霊的な災い(祟り)による病気を代わりに引き受けてくれるものとして扱われた。




出典: 「張形」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


 



卑弥子さんは春風亭柳朝の『蛙茶番』という噺を聴いていたら、「張形」が出てきたので、何事も経験だからぜひ使ってみたいと言ったではありませんかァ〜!

 


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デンマンさんは、きっと いやらし夢でも見たのですわよう。。。あたくしは、そのような「おとなのおもちゃ」には興味がござ〜ませんわァ〜。。。つまり、今日は小間物屋さんが扱っている「張形」のお話ですかァ〜?



いや。。。「左甚五郎の張形」の話は、すでに記事に書きましたから、今日は別の話題です。。。

 


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『左甚五郎の張形』

 



実は、先日、三遊亭圓生さんの『小間物屋政談』を聴いたのですよ。。。

 


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小間物屋政談

 

京橋の小間物屋の主人である相良屋小四郎は、自らが売り物を背負って売り歩く、背負い行商人である

 


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ある時、少しばかり金が入ったので上方まで遠出して商いに出ようとするのだが、道中箱根山のあたりで腹の具合が悪くなったので、森の中へ入って用を足すことにする。

すると、どこからか助けを呼ぶ声が聞こえたので、声のする方へ行ってみると、樹木に肌襦袢一枚で縛り付けられている男を発見する。
なんでもその男は江戸一番の小間物屋の主人、若狭屋甚兵衛という者で、病の療養の旅の道中、追い剥ぎにあったためにこのような姿になったのだという。
事態を知った小四郎は自分の着替えの着物一式と少しばかりの銭、それともしお礼をいただけるのであればと自分の名前と住所を書いた紙を甚兵衛に渡し、別れた。

甚兵衛は小四郎にお礼を言いながら京橋へ帰ろうとするのだが、帰路で泊まった旅館にて病をこじらせ、急逝してしまう。
旅館の者はこの死体の身元を調べようとしたたところ、先程の小四郎の名前と住所が書かれた紙が出てきたため、遺体を小四郎のものだと勘違いしてしまい、また小四郎の着物を着てるばかりか、顔まで小四郎に瓜二つであるため、知らせを聞いて駆けつけた大家までもこの遺体を小四郎だと勘違いし、そのまま甚兵衛の遺体は小四郎だとして葬儀もあげられてしまう…

そして葬儀が終わって数週間がたったある日。
小四郎に留守を頼まれていた大家は小四郎の女房である、おトキに縁談を持ってくる。
というのも、おときは夫の死(?)により、未亡人となってしまったものの、まだ夫なき身になるのには若すぎると考えた結果であるため、おトキも納得をし、小四郎の遠戚に当たる三五郎なら店を守るのにも男性としてもいいということで三五郎との縁談をまとめてしまう。

しかし、婚礼を済ませ、すでに夫婦として過ごしているところに、死んだはずの小四郎が帰ってきてしまう。
最初、2人は幽霊が出たと大騒ぎするが、事態を聞いた大家が小四郎の幽霊と話をしたところ、小四郎の死体だと思っていた男性の遺体は若狭屋甚兵衛であり、それが小四郎だと勘違いされることとなった原因も説明され、ようやく間違いに気づく。

しかし、すでに二人は仲の良い夫婦として暮らしており、引き離すわけにはいかないということで大家は小四郎に本当に幽霊になることを勧める。
小四郎もこれには納得がいかないため、南町奉行・大岡越前の守(かみ)に訴えを出した。

 


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仮におトキをとり返せたとしても、元のようにやってゆくのは難しい。
なぜなら、三五郎と夫婦として暮らしたことを小四郎は良くは思っておらず、そういう引け目があるために、おトキも気まずい思いをするに違いなかった。

小四郎と三五郎は従兄弟同士でもあり、血を分けた者たちの争いを見るのもよろしくはないということで、お奉行様までも小四郎に死ぬことを勧める。

しかし、お奉行様の話はこれで終わりではなかった。
お奉行様が言うには、小四郎がこのような事件に巻き込まれたのは そもそもは山中で若狭屋甚兵衛を助けたためであり、その若狭屋もちょうど主人を失ったことで悩んでいるところであることから小四郎に、若狭屋の跡取りとなることを勧める。

思えば、相良屋は主人自らが売りに出なければならないような小さな小間物屋であるが、それに比べて若狭屋は奉公人は大勢いる。

 


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おまけに莫大な財産も有り、その上、器量の良い後妻・おトシがついてくるのだから小四郎にとってこれほど上手い話はない。

小四郎は迷わず若狭屋の新たな主人・若狭屋小四郎となる道を選び、「これだけの身代だけでなく、おまけでこんな綺麗な女と結ばせてくれたお奉行様への御恩は一生かかっても背負いきれません」と言う。

するとお奉行様は「なに。お前はもう大きな店の主人となったんだ。だから、もう背負う必要はない」と寛大な返しをするのであった。



 



大岡越前守が名裁きをするのですわねぇ〜。。。



そうなのですよ。。。

このような話が実際にあったのでございましょうかァ〜?

僕は似たような話があったと思うのですよ。。。でも、大岡越前がこの裁判を担当したというのは嘘です。。。

あらっ。。。大岡越前守はこの裁判に関わってないのでござ〜ますかァ〜?

関わってません。。。越前守の経歴を読んでみてください。。。

 



大岡忠相

 


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大岡 忠相(おおおか ただすけ)は、江戸時代中期の幕臣、大名。
大岡忠世家の当主で、西大平藩初代藩主。
生家は旗本大岡忠吉家で、父は美濃守大岡忠高、母は北条氏重の娘。

忠相の子孫は代々西大平藩を継ぎ、明治時代を迎えた。
大岡忠房家の第4代当主で、9代将軍徳川家重の御側御用人として幕政においても活躍した大岡忠光(後に岩槻藩主)とは遠い縁戚(忠相と忠光の父・忠利がはとこ)に当たり、忠相とも同族の誼を通じている。

 

人物

8代将軍・徳川吉宗が進めた享保の改革を町奉行として支え、江戸の市中行政に携わったほか、評定所一座に加わり、関東地方御用掛、奏者番、寺社奉行を務めた。
越前守だったことと『大岡政談』や時代劇での名奉行としてイメージを通じて、現代では大岡越前守または大岡越前守忠相公として知られている
通称は求馬、のち市十郎、忠右衛門。諱は忠義、のち忠相。

 

大岡政談

 


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江戸町奉行時代の裁判の見事さや、江戸の市中行政のほか地方御用を務め広く知名度があったことなどから、忠相が庶民の間で名奉行、人情味あふれる庶民の味方として認識され、庶民文化の興隆期であったことも重なり、同時代から後年にかけて創作「大岡政談」として写本や講談で人々に広がった。

「徳川天一坊」、「村井長庵」、「越後伝吉」、「畔倉重四郎」、「後藤半四郎」、「小間物屋彦兵衛」、「煙草屋喜八」、「縛られ地蔵」、「五貫裁き」、「三方一両損」などのエピソードがある。

これらは日本におけるサスペンス小説の原初的形態を示すものと言える。
忠相の没後から講釈師による原型が作られると、幕末から明治にかけて発展し、歌舞伎などの素材などに使われ、また現代にいたってもTVドラマ化されている。

史学的検証では、数ある物語のうち忠相が町奉行時代に実際に裁いたのは享保12年(1727年)の「白子屋お熊事件」のみであることが指摘されている。

 


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『白子屋お熊事件』

 

現代に「大岡裁き」として伝えられているものの多くは、関東郡代や忠相の同僚である北町奉行・中山時春の裁定したもの(「直助・権兵衛」)や忠相没後の事件も含まれている。

また尾佐竹猛は、旧約聖書の列王記にあるソロモン王の英知として、互いに実子と主張し1人の子を取り合う2人の母親に対する調停の伝承など、聖書などに記される裁判物語がイスラム圏を経由し、北宋の名判官包拯の故事(「縛られ地蔵」と同様の逸話)になった後、エピソードに翻案され含まれたとする説を提唱。

永禄3年(1560年)に、豊後でイエズス会の宣教師がクリスマスにソロモン裁判劇を行なったという記録もあり、木村毅は『比較文学新視界』「ソロモン裁判と大岡政談」(昭和50年(1975年))でチベットの伝説や釈尊(釈迦)の伝説が日本のキリシタンの影響で紛れ込んだとする。

中東系(インド系では釈迦前世物語)では、実子を取り合う母親のうち一人は人食い鬼としている。

通常、大岡は庶民の味方、正義の武士として物語に登場する。
だが、学習院大学名誉教授の大石慎三郎は、大岡に関する伝記史料として信ずるに足りるのは『大岡忠相日記』がほとんど唯一のものである、とする。
この日記は、私生活を記したいわゆる日記ではなく、公人としての忠相の職務日録であり、行政官僚としての町奉行を活写しており、大岡政談とほとんど関係ないことが示されている。

しかし、町火消し制度の創設や小石川養生所の設置などの事例に「政治家はかくあるべし」という江戸庶民の願望が仮託されて、「政談」に結晶されたという見方もされている。




出典: 「大岡忠相」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


 



『小間物屋政談』の面白いところは、若狭屋甚兵衛が、病の療養の旅の道中、追い剥ぎにあって困っているところを 小四郎は自分の着替えの着物一式と一両を与えたのです。。。つまり、情けをかけてやった。。。「情けは人の為ならず」という格言を、「情けをかけると、それはかえって人のためにも、自分のためにもならないから、情けをかけるべきではない」と考えている人が結構いるけれど、この話の前半は、その具体例なのですよ。。。情けをかけたために、結果として、小四郎は死人と間違えられて、大家さんが早とちりをして、小四郎の妻のおトキは三五郎と再婚することになってしまった。



そうですわねぇ〜。。。情けをかけたことが災難と不幸をもたらしたのですわァ〜。。。

 


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でも、実は、「情けは人の為ならず」という格言は、「情けをかけると、その情けは回り回って自分が困っている時に、誰かが自分に情けをかけてくれることになる」というのが本当の意味なのですよ。。。



『小間物屋政談』の後半では、小四郎は大家さんにも、お奉行さんにも死ぬことを勧められるのですわねぇ〜。。。

そうです。。。誰が考えても、小四郎さんはふんだり蹴ったりの情けない境遇になってしまう。。。ところが、最後の場面で、大岡越前守が名裁きをする。。。

小四郎がこのような事件に巻き込まれたのは そもそもは山中で若狭屋甚兵衛を助けたためであり、その若狭屋もちょうど主人を失ったことで悩んでいるところであることから小四郎に、若狭屋の跡取りとなることを勧めたのですわねぇ〜。。。

そういうことです。。。小四郎が情けをかけたことで、妻のおトキを失ったとは言うものの、3万両の身代と26歳の美貌のおトシと新しい生活を始めることになったというわけです。。。つまり、「情けは人の為ならず」という格言は、前半では説得力がないけれど、後半で誰もが納得できるエピソードとして、この噺が終わるのですよ。。。


 


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【ジューンの独り言】


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ですってぇ~。。。

あなたも、情けをかけると損したような気持ちになりますけれど、迷わず人には情けをかけるようにしてくださいねぇ。。。

ええっ。。。「そんなことは、どうでもいいから、何か他に面白い話をしろ!」

貴方が、そう言うのであれば、デンマンさんがピンタレストで「ランジェリー 下着」のページを立ち上げました。。。

覗いてみてください。。。男性ならば、ムンムン、ムレムレになって元気をだしてください。。。

女性であれば、若い頃を思い出して、若やいだ気分になってくださいねぇ~。。。

 


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『拡大する』

『実際のページ』


 

ええっ。。。「そんなことは、どうでもいいから、何か他に面白い話をしろ!」

貴方は、そのようなムカついた口調で 更に、あたくしに御命令するのですかァ~?

分かりましたわァ~。。。

じゃあ、ショッキングなニュースでもお伝えします。。。

かつて「セサミストリート」で子どもたちに慕われていた人気者のビル・コスビーは、芸能界では幅を利(き)かせて大きな“権力”を握り、百人近い女性に対してセックスを迫ったのです。。。

 





 

子どもたちに性的ないたずらをしなかったことが せめてもの罪ほろぼしですわァ~。。。

ええっ。。。「そんな事は、どうでもいいから、もっと他に面白い話をしろ!」

あなたは、そのような強い口調で 更に あたくしに ご命令なさるのですかァ~?

分かりましたわァ。。。。

では、あなたもビックリするような

忠臣蔵のとっても古い映画をご覧くださいまし。。。

なんと。。。昭和3年(1928年)制作の『忠臣蔵』ですわよう!

無声映画ですけれど、弁士の方がなかなかうまい説明をしてくださいますわ。。。

つい、引き込まれて観てしまうのですわ。。。

浅野内匠頭(あさの たくみのかみ)がどうしてヘマをしでかしたのか?

そのへんのところが詳しく映像に残っております。

観るだけの値打ちがありますわ。。。

では、どうぞ。。。

 



 

ところで、どうして小百合さんが

「軽井沢タリアセン夫人」と呼ばれるのか?

 


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あなたは ご存知ですかァ?

実は簡単な事なのですわよう。

小百合さんは軽井沢に別荘を持ったのですわ。

小さな頃から軽井沢に住むことが夢だったのですってぇ~。。。

分からない事ではござ~ませんわァ。

そもそも小百合さんが軽井沢に興味を持ったのは、朝吹登水子のエッセーなどを読んだことがきっかけだったとか。。。

現在、朝吹登水子の山荘、睡鳩荘(すいきゅうそう)は軽井沢タリアセンに移築されて公開されています。


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それで、小百合さんは軽井沢タリアセンを訪れては睡鳩荘に足を運んで少女の頃の事を思い出すのが楽しみなんですってよ。

そういう訳で、デンマンさんが小百合さんのことを「軽井沢タリアセン夫人」と呼ぶようになったのですわ。

軽井沢・雲場池の紅葉



軽井沢のイルミネーション



秋の旧軽井沢銀座ぶらり散歩



とにかく、明日もデンマンさんが興味深い記事を書くと思いますわ。
だから、あなたも、お暇なら、また読みに戻ってきてくださいまし。
じゃあねぇ~~。


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メチャ面白い、

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■ 『ちょっと変わった 新しい古代日本史』

■ 『面白くて楽しいレンゲ物語』


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■ 『カナダのバーナビーと軽井沢に

別荘を持つことを夢見る小百合さんの物語』


『熟女下着』ジューンさんの熟女下着 June Adams 下着美人
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『センスあるランジェリー』



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ところで、平成の紫式部こと、卑弥子さんは見かけによらず、京都の女子大学で腐女子に「日本文化と源氏物語」を講義している橘卑弥子・准教授という肩書きを持っています。

卑弥子さんの面白い話をもっと読みたい人は
下のリンクをクリックして読んでみてくださいね。




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『女帝の平和』

『アタマにくる一言』

『悪女レオタード@昌原市』

『スウィートビーン』

『ガチで浦島太郎やし』

『ご苦労さま』

『デンマンのはなし』

『卑弥呼の墓』

『室生犀星と人間学』

『松平春嶽ダントツ』

『英語は3語で伝わる』

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『漢字で体操』

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『日本のエロい文化』

『女のオナラ』

『紫式部と宮本武蔵』

『頼朝の死の謎』

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『江戸の敵を長崎で』

『芸術は尻だ』

『尻の芸術』

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『キャドバリーチョコ』軽井沢タリアセン夫人の小百合さんが扮するゴディバ夫人 Sayuri
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