寝苦しい夜は続いている。
今年は里帰りする人も減ったと聞く。
この熱気は、ご先祖様の方から全国へ子々孫々の寝顔を見に参られているからなのだろうか。
関西ではお馴染みの地蔵盆の季節を迎えている。
こちらも中止、あるいは大人だけの開催になっているケースが多いと聞く。
地蔵盆の願いや祈りの物語を受け継ぐ地域も減ってきている証なのだろう。
命とは生と死の循環であり、限りある時間に繰り返し込められた絆の証のように感じている。
生があっての死であり、死あっての生でしかないんじゃないだろうか。
死など無くなればいいとも思うけれど、それが実現した時には命はどうなっているのだろう。
そして、ひとはどうなっているのだろう。
見せかけのやさしさや正義が、今日も新しいルールを作っていく。
いつの時代も、そうやって生きてきたのかもしれない。
決して完成されることなく、劣性的な条件を抱え不完全なまま全てをかけて我が命に挑む。
熱く激しく生きたい命の本能を開放してあげるには、「まとも」ではいられなくなる気もしてくる。
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