「ほんとうに、サンタはいないと、君は思ってるのかね?」
おじいさんはさみしそうな声で言った。環が鼻息を荒くして次に何を言おうかと考えていると、不意に、おじいさんは胸の前で組んでいた腕をほどいた。そして、ゆっくりと環の方に体の正面を向けた。おじいさんは笑っていたが、瞳の中には重い決意が見えた。環のあからさまな宣戦布告を、正面から受けとめなければと、おじいさんは覚悟を決めたのだ。環は、一瞬おじけづいて、半歩退いたが、すぐに勇をふるい起こして、元の姿勢に戻った。
(負けるもんか。絶対、絶対、やっつけてやる)
環はアスファルトの上に背骨を突き刺すように立ち、目の前の敵をにらみ、まるでナイフのように指でその鼻を差して、言った。
「サンタがいるんだったら、いるんだったら、どうして、どうして……、子どもの気持ちが、わからないのよ。なんで、つらい思いしてる時に、助けてくれないのよ……」
相手が立ち直れないような一言を言おうと思っていたのに、途中から環は何を言っているのかわからなくなった。最後の方には、泣き声さえ混じった。
「君は今、つらいのかね?」
「あ、あんたなんかに、わかるもんか! だれも、気がついてくれないんだ。我慢してるのに。ずっと、ずっと耐えてるのに……、みんな要のことばっかりで、わ、わたしのことなんか……」
いったい自分は何を言ってるんだろう? これではやつあたりじゃないかと、環は頭のすみで思った。でも、負けを認めたくない思いが、それを無理やりにぎりつぶした。どうにかして、こいつを言い負かさなければ、こいつの化けの皮をはいでやらなければ……。でも、本当は、自分が何をのぞんでいるのか、そんなに、おじいさんをやっつけて、一体どうするつもりなのか、環にはまるでわかってはいなかった。
「そうか、君は今、ひとりぼっちなのか」
おじいさんは、そう言うと、さみしそうな目をして、「わたしと同じだね」と言った。環は顔をあげた。おじいさんはそんな環の顔に、ぽっと笑いかけると、胸ポケットを探ってたばこを出した。そしてたばこを一本くわえて、火を点けながら、石を一つおくように、沈黙をおいた。吐き出したたばこの煙が、灰色の空の中へ、ぼんやりと消えていく。
「……わたしは、はやくに妻をなくしてね」
やがておじいさんが、もそりと言った。その声は、今までの芝居じみた優しい声とはどこか違っていた。環には、目の前のおじいさんの体が、急にしぼんで小さくなったように、見えた。
「長いこと、一人娘と、二人で暮らしていた。……祥子という名前だったんだが、いい子でね。中二の時に母親が死んでから、ずっと家の中のことをやってくれていた」
おじいさんは、たばこを持っていない方の手を顔にあて、少し照れくさそうに笑った。そして空を見上げて、目をしばしばさせた。
「……あの子が、短大を卒業して、保育園に就職が決まったときは、うれしくてねえ。わたしは仕事中心の人間で、あの子にはさみしい思いばかりをさせてしまったから……。なにもかも、これからだと、そう思っていた、矢先……」
おじいさんの声が、弱々しく、あえいだように、聞こえた。環は、胸が圧迫されるのを感じた。いやな予感がした。そんな話、聞きたくない。そう言おうと思ったが、できなかった。
「あの子の乗ってたバスが、居眠り運転のトラックと、衝突してね……」
おじいさんは視線を空に釘付けにしたまま、淡々と言った。
「……運も、悪かったんだろう。運転手もふくめて、バスには十二人も乗っていたのに、死んだのは、あの子だけだった」
環はぎゅっと目を閉じた。おじいさんの顔を見たくなかった。逃げようという思いが、どこかにあるのに、体が動かない。おじいさんの声がふるえている。
「信じられなかった。信じられなかったよ。とても、とても……病院やら、葬式やら、それからいろいろとあったんだが、なあんにも、覚えちゃいないんだ。……気付いた時は、弔問客も、葬儀屋も、みんないなくなって、狭い家に、自分ひとりになっていた……」
環の耳を切るように、冷たい木枯らしが、ざっと、吹いて、虚空に抜けた。
「……長いこと、仕事もせず、家にとじこもってた。祭壇の前にぼんやり座って、祥子の笑った写真ばかり、日がな一日、見ていた。高校時代、コーラス部に入っていた時の写真だった。ずいぶんとうれしそうだった。歌うのが、好きな子だった。わたしは、仕事を理由に、この子の発表会をあまり見に行かなかったことを、後悔した。後悔ばかり、していた……。わたしは、この子のために、何かしてやったろうか? 文句などめったに言わない子だった。二十年余りの間、生きていて、本当に幸せだったろうか? ……そんなことばかり考えて……」
おじいさんは、そこで少し息をついた。環は目を開けた。おじいさんの横顔に、深い影がかぶさっていた。つやつやしていたほおが、幾分ひからびて、引きつれたような深いしわがいくつも見えた。それが寒さのせいとは気づかずに、環は、この人はこんなに年をとっていたのかと、思った。
「……そうやって、考えているうちに、ふと、いい方法を思いついた。……そうだ、自分も死ねばいいじゃないか。向こうには妻もいるから、また三人で一緒に暮らせる。……まるで、散歩に行くみたいに軽い気持ちだった。何かないかとあちこち探すと、カゼ薬が一びんとブランデーがあった。この際眠くなれば何でもよかった。窓を厳重に閉め、ガスのコックを開いた。そして台所の椅子に座って、薬を酒で流し込み、それから、目を閉じた……」
おじいさんが、ふるえながら、たばこを一息吸うと、たばこの先に小さな明かりの点が、灯った。宵闇が、迫ってきていることに、環はふと気づいた。おかあさんの待つ家のことが頭をよぎった。すると、急に、おなかがきりきり痛むほどの空腹を感じた。そういえば、朝からほとんど何も食べていない。
「どれくらい時間が経ったのか、外ががやがや騒がしいと思ったら、ふと目が開いた。けたたましい音がして、いきなり窓が蹴破られ、だれかがどかどか入って来た。そこまでは覚えてるんだが、あとはわからない。気がつくと病院のベッドの上に寝ていて、見知らぬ看護婦さんが、じっとわたしの顔をのぞきこんでいた」
おじいさんは、くっくっと思い出し笑いをしながら、たばこを持った手で額をごしごしとこすった。髪がこげやしないかなと、環がなんとなく思っていると、おじいさんは懐から携帯用の灰皿を取り出し、たばこをもみ消した。そしてさっと背筋を伸ばすと、また空を仰いだ。
「……病院で、意識がなかった時、わたしはずっと、夢をみていた」
短い沈黙が、話を区切った。
「娘の、嫁入りの、夢だった……。奥の部屋で、妻が、娘に花嫁衣装を着せているんだ。わたしは礼服を着て、居間で所在無げに新聞を読んでいた。なんだか、複雑な気持ちでね。しんみりしてはいけないと、無理に気持ちを張って、読めない新聞の字をにらんでた……。そんな時間が、どれくらいあったのか、ふと気づくと、妻が居間に来ていて、何かをしきりに探している。わたしが、何してるんだと聞くと、妻は、『ねえ、赤いバッグを知らない?』と言う。わたしが、なんだ赤いバッグって、と問うと、妻はこう答えた。『赤いバッグがないのよ。せっかく今日のために買っておいたのに』
わたしは、バッグなんて後でもいいだろうと言ったが、妻はどうしてもあきらめられないらしく、まだ探し続ける。わたしはいらいらしてきて、もう時間だから後にしろ、と言った。すると妻はしぶしぶ奥にひっこんだ。全く、そういうすぐにものをなくす性は、昔とちっとも変わらん……そう、わたしが、ぶつぶつ言いながら新聞に目をもどした時だった。突然、後ろから娘の声がした。
『おとうさん』
驚いて、ふり向くと、そこは玄関先で、白無垢の綿帽子を着た娘が、開いた戸口の向こうに立って、わたしを見ていた。戸口の向こうには白い光に満ちていて、目を細めなければ、娘の姿がよく見えない。
『おとうさん、長いこと、ありがとう』
娘はお辞儀をして、言ったように思う。わたしは涙がこみあげてきた。何か言ってやらねばと思うんだが、胸がいっぱいで言葉が出てこない。
『それじゃあ、行ってきますから。おとうさん、あとはお願いしますね』
どこからか妻の声がした。わたしははっとして、立ち上がった。思わず叫んだ。
『待て! わたしもいく!』
するとまた、遠いところから、ころころと笑う妻の声が聞こえた。
『娘の嫁ぎ先についていく父親がどこにいますか』
声はだんだんと遠のいていき、白い光の中で、娘がゆっくりとわたしに背を向けはじめた。
『……待て! 待て!』
戸口が目の前でゆっくりと閉じていく。わたしは、追いかけようとしたが、どうしても足が言うことをきかない。それもそのはずだ。足もとを見ると、何か赤いひものようなものがしっかりとからみついて、離さない。わたしは焦ってそれをひきちぎろうとするのだが……そのうちに、目が覚めて、病院のベッドの中にいた」
おじいさんの視線がふと環にもどった。環は思わず笑い返してしまいそうになり、あわてて目をそらした。おじいさんは目を細めると、一言、寒いねえ、もう少しのしんぼうだ、と言って、続けた。
「……この話には、ちょっとしたオチがあるんだよ。実はね、あの時窓を蹴破ってわたしを助けてくれたのは、宅配便の青年だったんだ。おせっかいなやつでね。チャイムを鳴らしたのにだれも出て来ないわ、なにか変なにおいがするわで、これはもしやと思ったんだそうだよ。それにまた、そいつのもって来た荷物が傑作だったんだ。……バッグなんだよ。それも、真っ赤な」
「バッグ?」
「ああ。どうやら娘は、生前、通信販売で赤いバッグを買ってたらしいんだ。革製の小さなやつで、赤くて長いヒモがついていた。……はは、環ちゃんは、これをどう思う?」
笑いながら、おじいさんは、目頭をこすった。環は目を伏せた。空腹と寒さで、もうほとんど、おじいさんとやり合う気力はなえていた。えれど、それでもやはり、負けたくないという思いが、どこかに燃えかすのように残っていた。頭の中をどうめぐらしても、他に言うことが見つからなくて、環はかすれた声をしぼりだした。
「……それって、自分はほんとのサンタじゃないって意味なの?」
おじいさんは、それには答えず、視線をはるか遠くに上げると、大きな深呼吸を一つした。再びおじいさんの体が大きくなったような気がして、環はびくりと目を上げた。
「……あの日を境に、わたしの世界は変わった」
おじいさんは空を見上げながら、まるで何かを抱きしめようとでもするように、両手を大きく広げて、笑っていた。環はけげんな顔をした。
「……娘は、祥子は、わたしに、後悔をさせないようにと、ああして夢に出てきてくれたんだ……わたしは今も、そう信じている。だれが何と言おうと、信じている。だから、わたしも、娘のために、何かをしてやりたい。娘のために。だが、今さら死んでしまった者のために、何ができる? いいや何かあるはずだ。まだ、何かできることが、きっとあるはずだ。だからこそ娘は、わたしを助けてくれたのだ。わたしは考えた。ずっとずっと、考え続けた。そして、ある日、ふと思い出した。娘が勤めていた保育園に、一度だけわたしがサンタ役でかり出された時のことを。子どもたちの喜ぶ顔に囲まれて、わたしを見た時の、娘の誇らしげな、幸せそうな顔……。ああ、これだ。これしかない。わたしは決めた。そして、仕事をやめた。退職金で、赤い車と服を買い、大きな白い袋や、ブーツもそろえた。ひげを伸ばし、名刺を作って、それに、サンタクロースと、書いた……」
環はため息をついた。頭の中がこんがらがっていた。早く家の中に入りたいという思いと、おじいさんの話を聞きたいという思いが、頭の中でぶつかっていた。
「不思議なことだが、わたしは今も、娘がすぐそばにいるような気がして、しょうがないんだ。ほら、こうやって、目を閉じて、呼びかけると、今でもあの子は答えてくれる。……簡単なことなんだ。ただ、静かな気持ちで、耳を開けば聞こえる。……失ったんじゃない。わからなかっただけなんだ。それがわかった時、わたしには、急に、今まで見えなかったものが、たくさん見えるようになった。……タマキちゃん、君は信じないかも知れない。でもこの世界には、だれかが隠した秘密の声が、光が、無数に隠れている。……見えないたくさんの声が、さまざまな形を通して、わたしたちの心に、いつもプレゼントを送ってくれている。たくさんの見えない思いが、わたしたちを取り巻いて、わたしたちを、大事に、つつんでくれている。愛してくれている……。ひとりぼっちじゃない。ひとりぼっちじゃないんだ。わたしには、本当に、それがわかったんだよ」
おじいさんは、子どものように真剣な瞳で、環を見た。環は、ぽかんとおじいさんを見かえした。おじいさんの言っていることは、今の環にはほとんど理解できなかったが、なぜか、ふと、湯河香名子の顔が、くっきりと頭にうかんだ。
突然、胸がぎりぎりと痛みだして、環の口からうめくような声がもれた。涙がぽろぽろとあふれ出した。すると、空から、真っ逆さまに、何かが落ちて来て、自分の中にすとんと納まったような、そんなめまいがして、環はよろよろとその場にうずくまった。
何かが、砂のように、さらさら崩れていく。環は声を出さないで泣き続けた。そんな環を、つつみこむように、おじいさんの声が、周りを流れた。
「……いつか、そのすべての見えないものの持ち主が、突然わたしの前にあらわれて、わたしに、こう言うとする。
『やあ、やっと会えたね。わたしが、ずっとそばにいたことに、気がついていたかい?』
わたしはこう返事をする。
『もちろん。ずっと会いたいと思っていたんです』
すると相手は、こう言うかもしれない。
『そうか。実はね、わたしの本当の名前は、サンタクロースというんだよ』
そう聞いても、わたしは決して驚かない。むしろこう言うだろう。
『ああ、やっぱり! 前からそうじゃないかと思っていたんです!』
と……」
おじいさんの声の余韻が、風にさらわれると、歩と沈黙があらわれて、環は涙でぬれた顔をあげた。意外なほど近くに、おじいさんの笑顔があって、環は息を飲んだ。おじいさんは優しく笑って、環にささやいた。
「今日はクリスマス・イヴだね。君に、プレゼントをあげよう」
「プレゼント……?」
環が、問い返した。目の前のおじいさんの顔は、さっきまでの人と同一人物とは思えないほど、変わっていた。大きく、暖かな、包みこむような、ほほ笑み。なつかしいような、ずっと前にも、会ったことが、あるような……。
「力だ。小さな、小さな、力。そら、今、君の中に、すうっと、入っていった。まるで、魂が、キャンディを飲みこむみたいに」
サンタクロースはいたずらっぽく片目をつむると、歌うような声でささやいた。
「力? なんの?」
「……例えば、小さな一つのことばの中にも、それは隠れている。文字に込められた、簡単な意味にも、それは宿っている。目に見えない光のようなもの。聞こえない響きのようなもの。だが、それは確かにある。だれかが君のことを、遠くで思っているように、君のためにそれは、ひそかに燃え続けている……」
「意味が、わからないわ……」
環はしゃくりあげながら、問い返した。サンタクロースは、ふと目を閉じると、呪文のように、おごそかに言った。
「そうだね。簡単に言おう。それは、大事なときに、大事なことを、思い出す力だ……」
「大事な、ときに……?」
環は吸い込まれるように、サンタの目を、見た。すると、まるで、真っ白な映画のスクリーンが、突然落ちて来たかのように、環の目の前に、むき出しになった自分の本心が、現れた。
サンタの瞳は、笑っていた。腕を広げて、待っていた。そして、環は、今すぐにでも、その腕の中に飛び込んでいきたいと、心の底から、思ったのだった。前に、要が言ったように、だっこしてくださいと、いう言葉が、舌の奥から、今にも飛び出そうとしているのを、環はどうしようもなく切ない気持ちで、全身で感じとっていた……。
だが、同時に、まだその前にやることがあるということにも、気づいていた。
環は、ふらりと立ち上がった。そして、まるで砂に足をとられるように、ゆっくりと、きびすを返した。後ろでおじいさんが何かを呼びかけたが、応えないまま、環は次第に足を速めて、木枯らしの向こうへ消えていった。
(つづく)