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月の岩戸

世界はキラキラおもちゃ箱・別館
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ばらの”み” 16

2013-11-11 05:12:54 | 月夜の考古学

「ちっ」
 和希は舌打ちをすると、一瞬環の顔にツバをはくような口をして、さっと自分の席に戻っていった。女生徒たちの一群が、後ろの方でうひゃうひゃと笑った。環は、そのまま背骨が凍りつくかと思った。椅子に座ろうとしたけれど、足が震えて、先生が教壇に立っても、しばらく動けないほどだった。
 その日、和希は、休み時間のたびに環に近づいてきた。後ろの史佳の席に座って、環に自分の方を向かせては、根掘り葉掘りたずねてくる。
「へえ、砂田さんと広田くんて、おかあさん同士が友だちなんだ。じゃあ、話くらいするわよね」
「え、ええ……」
「どんな話するの? 野球の話とか?」
「そんな、べつに……」
「練習試合とか、見にいくの? ねえ……」
 環は、一生懸命ウソんこ笑いをしながら、一つ一つに、もそもそと答えた。
 和希が広田くんに好意を寄せているということは、クラスの公然の秘密だった。だから、クラスの女子はだれも、広田くんに近づいたり、話をしかけたりしてはいけない。それが暗黙のルールだった。それを環がやぶったことが、ばれてしまった。
 一体和希は、これからどんな手を使ってくるつもりなのだろう……。環は考えるだけでもぞっとした。和希たちの湯河さんへの数々の仕打ちが、環の脳裏をよぎった。いやだ、いやだ、自分があんな目にあうなんて。でも、どうすればいいの? どうすれば逃げられる?
 そつなく、上手に言い訳するんだ。ほら、この前だってできてたじゃないか。何にも考えずに、お世辞の一つも言って、その場をごまかしさえすればいいんだ。でも、舌先の使い方では、和希の方が環よりよほど上手だった。
「ねえねえ、それで、昨日はどんなこと話してたの?」
「あれは、い、妹が……」
「妹のことなんて聞いてないわよ。ねえ、何を広田くんと話してたの?」
 和希は、環の言ったどんなささいな言葉も、見逃さない。どうでもいいようなことまでつつき出して、次々と責め立ててくる。環はひきつった笑いで、なんとか表面をカバーしていたが、内心は、まるで心臓に塩をもみこまれてでもいるように、息苦しくてたまらなかった。涙が出そうになるのをこらえながら、地獄のような休み時間が過ぎるのを、ただ待つしか方法はなかった。
 誰か、助けて、助けてよ……。環は心の中で悲鳴をあげ続けた。でも、助けてくれる人なんて、誰もいなかった。みんな知らんぷりをしていた。いつもはうるさいくらいに環にからんでくる史佳は、どこに行ったのかさえわからない。和希の取り巻きグループは、遠くで固まってこっちの様子を見ながら、何やらくすくす笑いあっている。ただ、湯河香名子だけが、悲しそうな顔で、ずっとこっちを見ていた。
 授業の間も、環はみんなが意識的に自分から顔をそむけているように感じた。黒板の前に立っている先生に、環は何度か視線で困っていることを訴えてみたが、先生の視線は環のサインに何ら気づくことなく、いつも素通りしていった。環は絶望的になった。和希のあんなウソんこ笑いに、簡単にひっかかってしまう先生が、今の環の状態に気づくはずないんだ。環は、広い教室の中で、自分の周りだけが洞窟のように寒々としているように感じた。いや、実際、環の机の周囲は、いつもよりずっと広々としていた。みんな、環の机から、自分の机を、微妙に遠ざけようとしている。それに気づいた時、環は、水で全身をぬぐわれるように、りつ然とした。自分の存在は、確実に、あぶり出されてきているのだ。香名子のかわりの、クラスの新しいイケニエとして……。
(はやく帰りたい……、はやく終われ……)
 学校にいる間中、環はそればかり考えていた。ちょっとでもつつかれれば、そのまま不安が爆発して、泣いて教室を飛び出してしまいそうだった。
 帰りのあいさつが終わると、待ち兼ねたように環はカバンをとって立ち上がった。でも、三、四人の女子生徒が、出口に向かおうとする環の行く手をさっとさえぎった。そして、先生が教室を出て行くのを、ちゃんと確かめてから、和希が話しかけてきた。
「もう帰るの? もうちょっと話ししようよ」
 環は目の前が真っ暗になるような気がした。カバンの鈴が、ちりちり震えているのを見て、和希は舌なめずりをするみたいに、にやにや笑った。
「へえ、それってかわいいカバンね。どこで買ったの?」
 和希がカバンに手を伸ばしてきたので、環は思わずカバンを胸に抱えた。タニシコンビが、環のカバンについたアップリケを指さして、次々に言った。
「へんなの。ほら、よく見ると、縫い目がゆがんでる」
「ほんとだ。ピンクのちょうちょだって。だっさいよね。どうせ、おかあさんにでも作ってもらったんだ」
 教室の中には、まだ半分くらい生徒が残っていて、見ないようなふりをしながら、じっと成り行きを見守っていた。もちろん、見ているだけで、何もしない。環は、そんなクラスのみんなを今、心底から憎んだ。だが、環もまた、昨日まではそんな傍観者の一人だったのだ。環は、香名子もこんな気持ちで自分を見ていたのだろうかと、ふと思った。
「ねえ、今度の練習試合、ほんとに見に行かないの?」
 甘ったるい声で、和希が言った。環はびくびくして、目を足元に落としたまま、苦しそうに言った。
「あ、あの……」
 タニシコンビが、笑いながら環の足を指さした。
「この子、足がふるえてるわよ。おしっこもらしちゃうんじゃない?」
「何おびえてるんだろうね? ただ質問してるだけなのにさ」
 和希はフンと鼻を鳴らして、得意げに顔をそらした。環は目を落として、奥歯をぎりぎりかみしめた。
「ねえ、砂田さんて、広田くんのこと、好きなの?」
 和希が、とうとう言った。環ははっと顔をあげた。真正面から、和希と目があって、環は凍りついた。少し離れたところで、背を向けて立っていた広田くんが、たまらず、「おい、やめろよ!」と言った。でも、和希がちょっととまどうような顔で広田くんの方を見ると、広田くんはさっとまた背を向けた。環も、ちらりと広田くんを見た。広田くんの肩のあたりが、鉄板でも入っているように、硬くとんがって、ふるえているように見えた。
「砂田さん、広田くんのこと、好きなんでしょ?」
 和希が、少しムキになって、たたみかけてきた。でも環は答えられない。
「答えなさいよ。何でだまってるの?」
 環は、胸にクギをさされたような痛みを、感じた。涙があふれでた。和希は、環の胸の傷を、ぐいぐいえぐるように、何度も同じことをきいてきた。足から力が抜けた。涙がぽたぽた落ちて、声がもれた。タニシコンビのはやしたてる声が、一瞬、遠のいた。
 その時だった。広田くんが、急にガタンと机をけって、怒ったように、どたどたと教室を出て行った。
 環は、声を出すこともできないまま、呆然と、広田くんの背中を、見送った。そのまま、足元にぽっかり穴が空いて、果てしなくどこかに落ちて行くような気がした。
 ……どうして? どうして?
 環は、耳の奥で、抑揚のない言葉を、くりかえした。絶望の中に、冷たい心が、落ちていく。ここはどこ? わたしは今、何してる?
 自分に起きていることのはずなのに、まるで、他人事のように、感じた。もしかしたらこれは、だれかが仕掛けたお芝居なんだろうか? わたしは、だれの役をやってるんだろう? 次のセリフは、何を言えばいいの? だれか、教えてよ……
 目の前の、仮面のような和希の顔が、何かを言っている。環は、その脅迫的な視線が、自分の内臓の中にぐいぐい押し入ってきて、無理やり言葉を引っぱり出そうとしているのを感じた。もう、抵抗する気力さえ、残っていなかった。
 アンタ、イイナサイヨ、ドウ思ッテルノ? イワナイト、ヒドイワヨ。
 環は、もう、どうでもいいと、思った。
「き……」
 環が、人形のように発した言葉のきれ端を、和希は勝ち誇ったように取り上げた。
「き……? きらいなの! へえ、砂田さん、広田くんのこと、きらいなんだ!」
 廊下を足早に去って行く広田くんにも、わざと聞こえるような大きな声で、和希は言った。
「やっぱりね! 広田くんて、砂田さんのタイプじゃないんだ?」
 カバンが、足元にどさりと落ちた。環は、濡れぞうきんみたいに、その場にくずおれた。
 ……うっ、うっ、ああっ……
 しゃがみこんで、ぶざまに泣きじゃくりはじめた環を、タニシコンビが指さして、あざわらう。
 その時。
「なに?」
 和希が、後ろ頭をおさえて、ふと振り向いた。一瞬、沈黙が広がった。環もふと顔を上げた。見ると、少し離れたところで、真っ青な顔をした香名子が、ブルブル震えながら、仁王立ちになって和希をにらんでいた。
「あの子! 高倉さんに消しゴムぶつけたわよ!」
 後ろにいたグループの一人が、香名子を指さして叫んだ。
「なによ! あんた何様のつもりよ!!」
 和希の金切り声が教室に響いた。香名子はさっと身をひるがえした。
「逃げたわよ!」
「つかまえて!」
 和希たちは、環を放り出すと、一斉に香名子を追って教室を出ていった。
 ひとしきり、上ばきの音が、どたどた流れて言ったかと思うと、静けさはいきなりやってきた。後にぽつんと残された環は、しばし事態が飲み込めず、呆然と和希たちが走っていった方向を見ていた。
 後ろからだれかが肩に触ったので、振り向くと、史佳がそこに立っていた。
「……帰ろう」
 史佳は、環のカバンを拾いあげると、決まり悪そうに、少し笑って、言った。環は、よろよろと立ち上がって、カバンを受け取りながら、ぼんやりとうなずいた。
 廊下に出ると、遠くの方で女の子がさわいでいる声が、響いてきた。史佳は、その声とは反対の方向に、環を連れて行こうとした。だけど、何かが、一瞬、脳裏をかすめて、環は立ち止まった。すると、史佳は、焦った様子で、環のひじを引っ張った。
「こっちだよ。早く行かなくちゃ、要ちゃんが待ってるよ」
「うん……」
 頭の奥で、何かが、じりじり焼けているような気がする。だれかが、遠くで環に向かって必死に叫んでいるような、気がする。本当に、このまま、行っていいんだろうか?
 だが環は、史佳の手に、逆らおうとしなかった。
(そうだ、行かなきゃ……。要が待ってるんだ……)
 やがて、環は、とぼとぼと、歩き出した。史佳に手をひかれながら、環は、まるで今の自分は、脳みそがワラになった、あやつり人形みたいだと、ふと、思った。

  (つづく)



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