月の岩戸

世界はキラキラおもちゃ箱・別館
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ヤマルリソウ

2015-08-07 04:54:36 | 月夜の考古学
ヤマルリソウ Omphalodes japonica

山瑠璃草。春から初夏にかけて、山道のすみや木陰などに、小さな青い花をたくさん咲かせます。
 この詩はもう2年くらい前に書いたものです。その頃私は厳しい試練の中にいて、孤独の底でだれにも言えない苦しみをひたすらかみしめる毎日でした。大人になれば、だれでもそういう悲哀は抱いているもので。自分が心と顔の二層に分かれ、顔はいつも笑っていながら、胸の底には鉛のようなうつろがうずいていて、墨のような闇が孤独の輪郭ばかりを濃く深めてゆく。
 大人だもの。大丈夫さ。乗り越えられる。半分は強がりで自分を励ましながら、笑って毎日を過ごしていました。ほんとうはもうあっぷあっぷで、今にも負けそうだったのだけど。虚勢をはっていなければ今にもすべてが崩れていきそうでした。そんなとき。
 いつもゆく山の道のすみで、その花に出会ったのでした。空には光が満ちる初夏。命の喜びが風に満ちている季節。木陰に星の塊のような一群を見つけて思わず地面にすがりついた。まるで涙粒のような青い花。それを見たとたん、涙があふれてきました。次から次へと、とまらなくなった。
 泣きたいことなら山ほどあって。いつもそれを瞳の奥に隠して生きてきた。孤独も悲哀も、すべては自己の付属物だから。自分が背負わなくてはいけない影だから。仕方ない。これは私の荷なのだから。わたしがやらねばならない課題なのだから。
(いいよ、今くらい。弱くなっても)
 小さな花がささやいてくれるような気がした。誰にも言えなくても今、この花の前でなら言ってもいいような気がした。解放した感情は風がすべて拭っていってくれた。何もかもは初夏の光の中に溶けていった。
 しばらく泣いた後、私は立ち上がり、また試練の日常に戻りました。そして、失敗とやり直しを繰り返しながら、少しずつ課題を片付けていきました。
 今。ひとつのことをやりおえて、あのころのことをほほ笑んでふりかえれるようになった、自分がここにいます。

(2006年4月、花詩集35号)



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ちょっと無理

2015-07-12 04:46:55 | 月夜の考古学

1998年頃。当時所属していたサークル本の表紙として描かれたもの。
おそらくかのじょが描いた唯一の漫画。



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ハマダイコン

2015-07-11 04:26:50 | 月夜の考古学

ハマダイコン R.sativus var.hortensis f.raphanistroides

 海岸に生えるダイコンの花。元は野菜の大根が野生化したものと言われます。
 何年か前のことでした。私は、ひとりで戦わなくてはならない壁と、ぶつかっていました。長い人生、何度かそういうことがあります。誰に頼ることもできない、孤独の中で自分とだけ対話しながら、おのが人生の課題と戦わねばならない日々。
 その頃、私は一本のハマダイコンと出会いました。散歩道の途中で、堤防の切れた隙間を入って行くと、テトラポッドを積んだ海岸があり、目の前に小さな海が広がります。対岸の島が目の前に迫る狭い海。ほおをなでていく潮風。語りかけるような波の音。誰もいない場所で、私は自分自身と話をするために、よくそこで、海や空を見ながら長いことたたずんでいました。その傍らで、花は、テトラポッドの隙間に根差し、半分枯れたようなみすぼらしい姿で、十字の紫がかった白い花を、いくつかぽつぽつとつけていました。
 なんでこんなところで、咲いているのか。咲いても、誰も見てはくれないだろうに。真面目くさった顔で、冷たい海風と、ひたひたと根をいじめる潮に耐えながら。たったひとりぼっちで。
 その頃の、自分自身のことと、重なったんでしょう。私は、その花が終わるまで、毎日のように、そのハマダイコンに会いにゆきました。誰も見ない花、わたしだけは見てあげよう。そして語りかけてあげよう。その語らいの中で、この拙い詩はできたのでした。
 「巧詐は拙誠にしかず」という言葉が、「韓非子」にあります。表面を取り繕ってその場だけうまくやるよりも、長い時間をかけて、心を込めてやるほうが、結果的にはよいのだと。そうであればいいな。心を尽くして、拙くても、自分のやれることを誠実にやっていけば、きっと伝わらない心も、いつかは伝わるだろう。
 今年、同じ場所にいくと、前よりずっと大きく、美しくなったハマダイコンが、たくさん咲いていました。ああ、よかったねえ。うれしくなりました。あのみすぼらしいハマダイコンは、独りぼっちの岸辺で、風や潮に耐えながら、神様が教えてくれたことをまじめにやりとおして、ちゃんと種を残していったのです。そして、私のファイルの中の、小さな詩として、こうして今も、咲いてくれているのです。


(2005年6月、花詩集25号)



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メダケ

2015-07-10 04:10:17 | 月夜の考古学

メダケ Pleioblastus simonii

 イネ科メダケ属の多年生常緑笹。〈女竹〉
 日本の昔話に「ならなしとり」というのがあります。三人の兄弟が、母親の病気を治してあげるために、森の奥の沼のほとりに生えているという『ならなし』をとりにいくというお話です
 兄弟は順番に森へ入っていくのですが、道なりにゆっくとやがて分かれ道にぶつかり、そこには竹が生えています。一方の道に生えた竹は「イクナッチャ、サヤサヤ」と鳴り、もう片方の道の竹は「イケッチャ、サヤサヤ」と鳴っています。一郎と次郎は、「イクナッチャ、サヤサヤ」と鳴った方の道を行ったがために、沼に自分の影が映って、沼の主に食べられてしまいます。ですが末っ子の三郎だけは、「イケッチャ、サヤサヤ」と鳴った方の道を選んで、無事に『ならなし』をとって帰り、母親の病気を治すことができるのです。
 子供の頃にこのお話を本で読んだとき、なぜ一郎と次郎は、「イクナッチャ、サヤサヤ」と言われているのに、間違った方向へ行ってしまったのだろうと、不思議に思ったものでした。そっちに行ってはいけないと言われているのに、まるでそれが聞こえないかのように、ずんずん間違った道を行ってしまうのです。でも大人になり、様々な人生の経験を踏んでくると、何となくその訳がわかってきます。
 人生の重要な岐路で、人は時々、どうしようもなく間違ってしまうことがあります。周りがどんなに、そっちへ行ってはだめだよと忠告しても、ある種の思いグセに心を捕らわれていますから、その思いは届かないのです。人と言うものは誰しも、一度は、何の疑いもなく自分が正しいと思っている間違った道を進み、そしてつまずき、暗がりの中に迷い込んでゆかざるを得ないのです。
 何が正しいことなのかを本当に知るためには、過ちの苦い経験は不可欠の課程と言っていいでしょう。人はその暗いトンネルをくぐりながら、どこを間違ったのかと、自分自身ととことんまで話し合わねばなりません。でなければ学べないことが、この世界にはたくさんあるからです。そしてそういう陰影は、誰の人生にもあります。
 失敗のない人生などありえません。大事なのは、そこで何を学び、どこで引き返して来るかです。意地に凝り固まってそのまま進めば、影の映る沼が待っています。



(2004年7月、花詩集14号)



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ふゑのあかぼし

2015-07-09 04:26:43 | 月夜の考古学


天暗き千歳の夢も問ひつきて
          ウェヌスは目覚めマルスは眠る


底暗き水に落ちたる白玉の
          色病まずして清みとほりけり


たれひとりこたふるのなき長き夜を
          しづかに忍べ月下の蘭よ


星だにも捨てはつる夜の闇をゆく
          たよりともせむ君たまふ花


わがたまをつらぬく糸の細かりて
          絶ゆるなきそをまこととぞいふ


耳に寄す光散りくるさへづりを
          書きつくしてよ鳥のうたびと




(2007年頃か。旧ブログ、歌集「ふゑのあかぼし」より。ふゑとは『不壊』であり、あかぼしとは朝に上るヴィーナスの星のことである。つまりこれは、愛は決して壊れないという意味である。)




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ジャノメエリカ

2014-08-20 06:35:00 | 月夜の考古学

いつまでも泣いていてはいけない
傷ついたその痛みの中に
溺れているままでは
大切な魂が泥に溶けてしまう

さあ 息をとめて
涙をとめてごらん
とめられなくても
目を開いてごらん

あなたの胸に
深く空いたその傷口は
あなたが自分自身の中に
入っていくための入り口なのだ

あなたはそこから
魂の国に入って 今から
本当の自分に出会うための
長い旅を始めるのだ

だから
傷つけた人の背中ばかり
追いかけていてはいけない

泣きながらでも
忘れられなくても
今は 目を閉じて 思いきり
自分の中に飛びこんでいくのだ

胸の奥から聞こえる
かすかな唄の声をたよりに
いつもあなたを呼んでいた
あたたかなあの人の元へ

あなたは旅をしてゆくのだ



(2005年 花詩集22号)



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ゆり

2014-07-20 06:46:16 | 月夜の考古学

真鍮の空気の奥で
眠っていた青い百合が
小さなつりがねそうのため息で
目を覚ます

樹脂を塗った海
動くことのない青磁の空
百合はそっと歩きだす
風の残した気配をたどり
死んだ船のそばを通り過ぎ
かすかな波の寝言をやりすごし
はたはたとひらめく
海の果てのほころびを抜けて
百合は世界の外へ
そっと抜け出していく

星々の夢の中で
燃えているガラス器の中の
金のネジにさわれるのは
ただその百合だけだったから

燃え尽きぬ明りのような
金のネジを
水晶の布で磨いて
ちりちりとまきはじめる
するとおるごおるのように
空が回り出し
太陽は小鳥のように
歌いながら舞い戻った

あくびをしながら
野を歩く少年のかたわらの
何げない草むらの奥に安らいで
百合はまた明日の朝のために
夢の中で水晶の布を織る



(2006年、花詩集34号)



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ぬばたまの

2014-03-29 04:00:18 | 月夜の考古学



ぬばたまの
   やみにもふでを
        ひたしみて

  きみにふみよす かひもなきひび




わがたまを
   つらぬくいとの
       ほそかりて

たゆるなきそを

まこと とぞ いふ



  (歌集「ふゑのあかぼし」(旧ブログ)より)




返歌

つるのなき ことをはじきて
なくきみを

かこむやへがき

        つくるますらを




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種の歌

2014-01-02 04:52:23 | 月夜の考古学

風は渡り 種をはこび
大空の陽は 野に光をまく
顔をあげて 歌を歌い
悲しみは 空に投げよう

明日もまた 笑うために
今はただ 瞳を心に沈めて
ことばもなく 生まれる歌に
そっと耳を 傾けよう

いつかきっと 芽生く種を
風の薫りに そっと隠して
野辺に眠る あなたの胸に
明日を信じて 届けよう

風は渡り 種を運び
大空の陽は 野に光をまく
歌いながら 笑いながら
悲しみは 空に投げよう

悲しみは 空に投げよう



(2002年、種野思束詩集「種まく人」より。
  トトロの挿入歌に寄せた替え歌)



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ばらの”み” 23

2013-12-24 04:42:01 | 月夜の考古学

12 冬の終わり

 その日の朝、環は着替えを終えると、さっと窓のカーテンを開けた。
 澄んだ明るい青空が、広がっている。環は外気に触れたくなり、窓を開いた。新しい朝のぴんとはった空気が、体の中にじわじわと満ちてくる。環は手でほおをぱちんとたたくと、思い切り伸びをした。
「よおし……!」
 年も明けて、冬休みが終わり、今日からまた学校が始まる。
 ふり向くと、机の上に、明るい窓の影がくっきりと伸びているのが見えた。日の光は、机の上に開いたスケッチ帳の一角を、白々と照らし、そしてその隣では、真新しいドイツ製の色鉛筆のケースが、ほこらしげに光を反射している。
 環はスケッチ帳をとりあげて、まだ描きかけの絵をしげしげと見た。パイプをくわえたサンタクロースが、ソファーに座って笑いながらくつろいでいる。まだ半分も色を塗っていないけど、ソファーには、あのばらの実の模様を、細かく描きこむつもりだった。
 この絵は、今おかあさんが作っている手作り絵本の表紙として、使われる予定になっている。題名は「サンタ・ノート」。砂田ファミリー探偵団による、サンタクロース・レポートだ。光がもってきた小さなきっかけや、香名子のハマナスの夢の話、環が見た不思議な夢の話、要の見つけた音の秘密など探偵団員が集めてきた情報を、おかあさんは今一生懸命文章にまとめている。絵を描くのは、環の役目。きっと、すてきな手作りの絵本が何冊かできあがるはずだ。そうしてできた本の一冊は、四月の初めだという、あのサンタの誕生日の贈り物になるのだ。サンタの誕生日は、探偵団長であるおかあさんが入念に聞き込み調査(?)をして、つきとめた。
(おかあさんて、いきあたりばったりだと思ってたけど、けっこうやるもんだね)
 環は、絵本を受け取った時の、うれしそうなサンタの顔を想像すると、なんだか自分までうれしくなってくるようで、一人でに笑いがこみあげてきた。
「タマキぃ! ごはんよ!」
 階下からおかあさんの声が聞こえた。環はスケッチ帳を閉じると、「はあい」と答えて、部屋を出た。
 台所のテーブルにつき、トーストをかじって一息つくと、それまでなんとなく聞きそびれていたことを、環はおかあさんに聞いてみたくなった。要も光も、みんなそれぞれテーブルの所定の位置に座って、ゆでたまごやサラダをぱくついている。
「ねえ、おかあさん……」
「なあに?」
 おかあさんは、みんなのマグにホットミルクを注ぎながら、背中で答えた。
「……ううん。なんでもない」
 環はトーストを口につっこみながら、もぐもぐと言葉をにごした。おかあさんはそんな環を振り返ると、少しほほえんで、またマグの方に向き直った。
 テーブルにひじをついて、日の光で明るい居間の方をなんとはなしに見ながら、環は、去年のクリスマスの朝のことを、思い出していた。
 その朝、何だかとても幸せな気持ちで目覚めて、何げなくまくら元を見ると、赤いリボンのついた小さな包みが、おいてあった。夢と現実がごっちゃになって、環は急いで包み紙をやぶった。そして、その中から現れたものを見たとき、環は一瞬、息がとまった。
「……うそ、あの色鉛筆だ!」
 デパートの画材売り場で、飽きもせずにながめていたものが、今、自分の手の中にある!
 あわてて跳び起きて、台所に降りると、要も光もまだ起きていなくて、パジャマのままのおかあさんが、テーブルの上を片付けていた。汚れた灰皿と、台所にただよう、かすかなたばこの匂い。環の頭に昨夜のおぼろげな記憶がよみがえった。夢じゃなかったんだ。やっぱり、おとうさんは帰ってきてたんだ。
 でも、おとうさんたちには、どうして環がずっと欲しいと思っていたものが、わかったんだろう? 環は、今まで一度も、あれが欲しいなんて言ったことはなかったのに。
 環は、おかあさんが入れてくれたミルクのマグに手を伸ばしながら、ふと思いついて、おかあさんの顔を見あげた。
(おかあさんて、もしかしたら、ほんとに魔法が使えるのかな?)
 そんな環の思いを知ってか知らずか、おかあさんは環の視線をやさしくとらえて、にっこりとほほ笑みで答えた。環は、知らず、ほおを染めて、目をそらした。
(……まさかね)
 あわてて飲んだミルクが舌を焼いて、環は、あちっ、と声をあげた。するとおかあさんがいつもの調子で「ほらほら、ゆっくり飲みなさい。赤ちゃんみたいにこぼさないでね」と言った。環は、うるさいな、とは思ったけれど、表向きはしおらしくして、はあい、と答えた。
「さてと、要、そろそろ行こうか」
 朝食が終わって、身支度を整えると、環はカバンを背負いながら要に言った。いつもは手提げにして使うカバンだけど、今日からはリュックにして使う事にしたのだ。
「うん! カナコちゃん、待ってるね!」
 要が大きな声で答えた。
 去年、仕事がみんな片付いておとうさんが家に帰って来たのは、暮れもおしつまった二十九日のことだった。他にもいろいろあって、結局できなかったクリスマスパーティーのかわりに、おかあさんはお正月パーティーを開いた。そのパーティーに、絵本をずっと持っていてくれたお礼だと言って、おかあさんが香名子を招いてから、香名子と環たち姉妹は急速に親しくなり、冬休み明けからいっしょに登校することを約束したのだった。
 香名子は、クロの道の入り口に立って、待っていた。環たちの姿を見かけると、はずかしそうに笑って、小さく手をふった。環が小声で、「香名子ちゃん、手をふってるよ」と要にささやいた。すると要は大きく手をふって言った。
「カナコちゃあん! おはよう!」
「おはよう、要ちゃん」
 香名子は、環たちと肩を並べながら、おずおずと言った。
「ねえ、ほんとに、わたしと登校してもいいの?」
「もう、今さら何言ってるのよ」
 環が少し怒ったように言うと、香名子はしゅんと肩をすぼめた。
「だって、わたしといっしょにいるところを見られたら……」
「平気だよ、そんなの」
 環はフン然と言った。
「わたし、もう決めたの。正面から立ち向かってやるって。これからは、もう二度と、自分の心がいやだっていうことは、しないって」
「……」
 環はきっぱりと言ったけど、香名子は少し不安そうにもじもじしながら、環の横顔をうかがった。環はちょっとこわい顔をして、前をぎっとにらんだ。環だって、和希たちの仕返しがこわくないと言えば、うそになる。でも。
「大丈夫だよ。見てて」
 環は、自分も元気づけるように、にっこりと笑って香名子を振り返った。と、ちょうどその時、わきからクロが激しくほえたててきた。
「このバカ犬!」
 環と要が、ほとんど同時に叫んだ。次に、空気をたたくような笑い声が起こった。要が、環とつないだ手を振り上げながら、笑っていた。それを見て香名子は突然胸がすうっと明るくなったような気がした。
 クロは思わぬ反撃に怖じ気づいたのか、奥にひっこんだままもう何も言わなかった。三人は微笑みをかわし、手をつないで、ゆっくりと道を歩きだした。

 要を送り、自分の教室の前に来ると、環の心臓は高鳴った。後ろで縮こまっている香名子の気配が、背中に熱い。けれど環は、もう二度とは逃げたくないと思っていた。あんなふうに、誰かを見捨てて自分だけ逃げて行くなんて、そんな自分になるのはもういや。今度こそは、絶対に、香名子を守るんだ。
 環は口をかみ、思い切るように、扉をガラリと開けた。
「あ、砂田さんが来た!」
 史佳の声が聞こえたかと思うと、いきなり二、三人の女生徒ががやがやとやって来て、環たちを取り囲んだ。思わず足が退きかけたが、環はぐっとこらえた。何を言われるのかと、皆をにらみかえしていたら、女生徒たちはうれしそうに笑って、環の手をにぎってきた。
「きいたよ、砂田さん、ワキをやっつけたんだって!?」
「え……?」
 環は一瞬、わけがわからず、香名子と顔を見合わせた。史佳がさも自慢そうに、環の肩に手をやりながら言った。
「そうよ、すごかったんだから! 何よ、このカエル女!」
「気持ちよかったあ! 私も胸がすうっとしちゃった!」
 環はあっけにとられて、しばしあんぐりと口をあけた。女生徒たちは、招きいれるように環の手を引っ張って、彼女を席に座らせた。環は戸惑いを隠せず、周囲を囲む女生徒たちの顔の列をけげんな顔で見渡した。女生徒たちは、そんな環の方はあまり気にせず、口々に好きなことを言った。
「そうだよね。考えてみれば、あんなやつのキゲンとる必要なんて、ないよね」
「あーあ、プレゼントなんて、あげて損しちゃった」
「……ほら見てよ、ワキのやつ、しょぼくれてる」
 皆にうながされて、環もふり向くと、高倉和希は、一人ぽつんと自分の席に座って、うつむいていた。いつも大勢の取り巻きに囲まれていたのに、この有り様はどうしたことだろう? 環は周りを見回してみたが、教室のみんなは、意識的に和希を無視しているようで、だれも声をかけようとしない。
「いい気味だよね。ちょっと調子に乗りすぎたのよ」
 和希を見て、にくにくしげに言う尾崎史佳に、環はなかばアッケにとられながら、たずねた。
「いったいどうしたの? なんだか、前とゼンゼン違うみたいだけど……」
 史佳は声をひそめることもせず、聞こえよがしに言った。
「……あれからさ、取り巻き連中がみいんなシラケちゃって、和希から離れていっちゃったのよ。みんな、よく考えてみれば砂田さんの言う通りだってわかったんじゃない? かっわいそうに、タニシコンビなんかほら、どっちにもつけなくて、あんなところで二人かたまって、びくびくしてるわよ」
 史佳の指さす方向を見ると、和希の金魚のフンだったタニシコンビが、教室の隅で周囲をおどおどと見回しながら、何かをこそこそ言い合っていた。
「考えてみれば、ワキもかわいそうよね。結局、単にまわりに遊ばれてただけなんじゃない?」
「そうね、のせられていい気になってただけなのよ。それでみんな、おもしろくなくなったら、ポイだもんね」
「まあ、お遊びが終わってよかったじゃない」
「これも砂田さんのおかげね」
 史佳たちは教室中に響き渡るような声で、笑った。環は今一つピンと来ない様子で、もう一度和希の方を見た。和希は机に額をつけるようにうつむいて、みじめなくらい小さくなっていた。あれが、本当に、あのいばりくさっていた、和希なのだろうか?
 史佳たちが離れていくと、環はカバンを片付けて、窓ぎわの香名子のところに行った。香名子も、何が何だかわからないという様子で、首をかしげながら、環をむかえた。
「なんか、拍子抜けしちゃったよ、わたし」
 環が言うと、香名子は小さく息をついて、言った。
「またひとりぼっちの子が、できちゃったね」
「それ、和希のこと?」
「うん」
「自業自得って気もするけど」
「でも……、つらいんだよ、ひとりぼっちって」
 香名子は、瞳をきっとあげて、環を見た。
「そうだね……」
 環は、ちょっとつらそうに目を伏せて、また和希の方を見た。和希は、一人机に座って、通信簿なんかを一心に読むふりをしながら、懸命に屈辱に耐えているように見えた。
 環は目をそらした。かわいそうだとは思うけど、今はどうしても、嫌悪感の方を強く感じてしまう。正直に言って環は、あの和希のことを今すぐに許す気には、とてもなれない。でも、一人だけをのけ者にして、自分たちはつるんで安楽の中に逃げる、史佳たちのようなやり方にも、環はなじめないと思った。
 環は香名子の方を見た。香名子も、多分同じ気持ちなんだろう。くちびるをかみしめて、少し複雑な顔で、瞳をゆらしている。
 環は、ふと、サンタさんの顔を、思い出した。……大事なときに、大事なことを、思い出す力。あの時サンタさんがくれたもの。それはまだ、環の中にあるだろうか? 環は考えた。そして、胸の奥から、一つの不思議な響きが、はね返ってくるのを、感じた。それは、まるで何かの呪文のように、繰り返しこう言っていた。

 ばらの、み。ばぁらぁのぉみ……

「ねえ、とにかく、どうすればいいか、二人で考えない?」
 突然、環は言った。香名子は、驚いたように目をはっと上げて、真っすぐに環の目を見つめた。環も、香名子の目を見た。やがて、香名子は、力強くうなずくと、言った。
「うん。考えよう。二人でなら、きっといい考えが浮かぶわ」
 どちらともなく、二人は笑いあった。すると、急に、周囲の日の光が、輝きを増した。目を窓の外にやると、薄い雲にかくれていた太陽が、青空に顔を出したところだった。

 終業式と同じように、退屈な始業式が終わると、環たちは待ってましたとばかりに解き放たれた。香名子と話しながら階段を下りて行くと、前を歩いていた広田くんが、ふとふり向いて、環に言った。
「よう! 今日も要ちゃんと帰るのか?」
「うん!」
 環はにっこりと笑い返して、元気よく答えた。
「早く行かなきゃ! 要ちゃん、待ってるね!」
 香名子も笑って言った。
 階段を下り、大急ぎで靴をはきかえながら、環の胸の中では、あの呪文が、まだ、リズムを打っていた。

 ばらの、み。ばぁ、らぁ、のぉ、み!

 一つ一つの、音の中に、やさしいものが、かくれていて、それはほんの小さな、羽のように、くすぐったく震えながら、ともしびのように、たしかに、たしかに、燃えているのだ。
 環はもうそのことを知っている。
 環は出口の向こうの空を見た。光が、まぶしい。黄色い点字ブロックをけって、環は光の中に飛び出した。鈴が勢いよく、風の中でおどった。
「あ、おねえちゃん!」
 日だまりの中で、光る要の笑顔が、声といっしょにふり向いた。

(おわり)



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