ある産婦人科医のひとりごと

産婦人科医療のあれこれ。日記など。

加藤先生の初公判後のインタビュー記事について

2007年02月10日 | 大野病院事件

コメント(私見):

子持ちししゃも様のコメントからの情報で、加藤先生の初公判後のインタビュー記事がネット上に掲載されてました。

気力体力とも人生で一番充実している39歳の医師が、長期間にわたり臨床の現場から離れざるを得ない状況に置かれ、本当につらい日々だと思います。これは、地域にとっても、本当に大きな損失だと思います。

思えば、私も同じ年齢の頃は、加藤先生と同様に僻地の一人医長でした。毎日毎日、外科や泌尿器科などの病院の同僚の先生方に手術の助手をお願いして緊急手術で明け暮れていました。忙しすぎて1週間以上にわたって1度も帰宅できず、自宅を守る家内から、「生きてる?」という電話がかかってきたこともありました。

今回の裁判は他人事とは思えません。

トラックバック:速報 大野病院初公判傍聴記

*** 以下、ネット上のインタビュー記事の一部抜粋

(前略)

--逮捕されたときの状況とそのときの気持ちを聞きたい。
加藤医師 インターネットなどでいろいろな情報を見ていると、診療中に逮捕されたとの記載もあったが、そうではない。逮捕されたのは土曜日で、その3~4日前に警察から病院に連絡があり、家宅捜索に入るため、朝から待機するように言われた。土曜日は外来が休みだが、急患などに備えて近隣の病院の先生に応援に来てもらうよう手配もした(編集部注:当時、福島県立大野病院の産婦人科医は、加藤医師一人)。午前中に2時間くらい家宅捜索があり、「警察署で話を聞く」と言われた。その前にも3回くらい警察署で話をしており、それと同じかなという感覚だった。(所属している)大学にも電話し、「警察に連れて来られた。逮捕されたら、どうしようか」などと冗談で言っていった。ところが警察の取調室に入ったら、突然逮捕状が読み上げられた。「これは、こうだからこうしたんですよ」などと説明もしたが、もちろん聞き入れてもらえなかった。

--今日は法廷だけに出て記者会見に出ず、そのまま帰るという選択肢もあったが、公の場に出た理由は。
加藤医師 逮捕当初は、逮捕されたという事実、その後のマスコミの報道、インターネットなども見て、遺族の思いも考えながら、私自身、かなり落ち込んだ。話をする踏ん切りが付かなかった。今回も、私は言葉に詰まるタイプであり、言いたいことを言えるのかという不安もあった。また、物事にはいろんな見方があり、変な受け取られ方をすると遺族が傷付くと思った。けれど、逮捕からほぼ1年がたち、気持ちの整理もでき、周囲の状況もやっと理解できるようになった。また私を支援してくれている医療従事者に元気でいることを伝えたかった。今日も、昼食前までは記者会見に出るとは全然思っていなかったが、記者の方から質問状を受け取り、弁護士の先生方の説得もあり、記者会見に出ることを決めた。
主任弁護人 彼は昼前までは出るつもりもなかった。ただ初公判は新聞で報道され、顔写真も出る。これを機会に自分の気持ちを話しておいた方がいいのでは、と説得した。

(中略)

--全国の産婦人科医などから支援の声が数多く寄せられているが。
加藤医師 本当にありがたく、心強く思っている。

--産婦人科医は今、志望する医師も少なく、厳しい現状が伝えられているが、そのことをどう思うか。
加藤医師 私も産婦人科医であり、いろんな現状を聞くが、今回の裁判が一因になってしまったと申し訳なく感じてもいる。

--今日の裁判の特徴として、検察側が遺族の心情が書かれた供述調書を読み上げることに時間を割いた点が挙げられる。加藤医師には非常につらい時間だったと思うが。
主任弁護人 あの調書は加藤医師にとって不利なものであるという認識はあったが、遺族の率直な気持ちであるとして証拠として採用することに同意した。同意しなければ、遺族の何人かは法廷に呼ばれ、証言することになる。それは遺族にとって二重の悲しみであり、負担、心理的な圧迫となる。われわれも非常に悩んだが、結局、これ以上は遺族に迷惑をかけたくないと思い、証拠として同意した。しかし、本件で問われているのは医療行為の過失の有無であり、検察官が朗読したことは公正とはいえないだろう。
弁護人 予期せぬ結果、死に常に向き合わなければいけないのは、医師の務めである。いつ何時、自分の患者さんを意思に反して失うか、その「まさか」に向き合わなければならず、常にそれにさらされているのが医師という職業だろう。遺族がどんなに悲しみ、どんなに憤っているか、それを私たちが受け止めなかったら、弁護はできない。

(以下、略)


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