助産師になるためには、1年間の助産師養成コースを修了し、助産師国家試験に合格する必要があるが、その1年間の助産師養成コースでは、せいぜい10例程度の分娩介助を実習するだけであるから、免許取りたての新人助産師の段階では、実際の分娩介助の経験は未だほとんどゼロに等しく、実際の臨床の現場ではまだ全く使い物にならない。
従って、免許取りたての新人助産師は、まず先輩助産師の大勢いる大病院に就職して、先輩助産師の厳しい指導の下に鍛えられて、数年かけてだんだん一人前の助産師に成長してゆく。最初の就職先がしっかりとした研修のできる病院でないと、一人前の助産師になれないで終わってしまう。
医師の場合は、最初に就職した研修病院のままずっと職場を変えない人はむしろ少なく、数年ごとに職場を移動する場合が多いが、助産師の場合は、医師と違って、最初の就職先のまま職場を変えず長年勤務し続ける場合が多いと考えられる。
当科所属の助産師たちの場合、ほとんどが地元出身者で、新卒で採用された者が多い。なお、市内の短大に助産師養成の専攻科があり、当科が実習施設となっていて、新人助産師の貴重な供給源となっている。当科で長年活躍し、退職した後にその短大の教員になって、助産学生を教育して後進の地元学生を育てることに専念している者も数名いる。ここで入門し、ここで厳しく鍛えられて成長し、ここで後進を育て上げている、先輩後輩の強い絆で結ばれた、体育会系の、とても頼りになる、最強の女性軍団である。
また、助産師たちが、それぞれのライフサイクルの中で、妊娠、出産、子育てと自分の仕事を両立させてゆくためには、しっかりと産休、育休がとれて、超過勤務のない職場を選択したいと思うのも当然の話であろう。
これらの諸々の事情から、助産師が極端に偏在する結果となっている。この現実の姿を無視した一方的な施策によって、多くの母子の生命が危険にさらされる事態だけは何としてでも回避しなければならない。現実に即した解決策を探っていただきたいと思う。
****** 東京新聞、2006年8月31日
助産師が足りない 人材、大病院に集中
(略)
助産師は助産、妊婦や新生児などの保健指導を担う。看護師が助産師になるには、主に一年間の助産師養成所を卒業し、国家試験に合格する必要がある。厚生労働省の調査によると、二〇〇四年の看護師・准看護師の就業者数は約百二十二万人。これに対し、助産師は約二万六千人。助産師の勤務場所をみると、病院(二十床以上)が七割近くを占め、開業医も含む診療所(二十床未満)は二割以下だった。
一方、〇三年に生まれた子どもの出生場所は病院52%、診療所47%、助産所1%。お産の半数近くが小規模施設で行われているにもかかわらず、担うはずの助産師は大病院に集中している。
約五十人の助産師を抱える大規模病院の助産師長はこう分析する。「大病院に勤めれば、多くのお産にかかわれて勉強になる。勤務も通常の休日はもちろん、産休や育休もとることができる」
産科医不足同様、いつ始まるか分からないお産に対応するには過酷な勤務が要求される。その割に収入も他科の看護師と大きな開きはない。
(以下略)
(以上、東京新聞、2006年8月31日)
「六万三千人の署名でともした光が、わずか一年で消えてしまった…」。尾鷲市が三十一日、五千五百二十万円の報酬で確保した尾鷲総合病院の産婦人科医との契約延長交渉の決裂を発表したことで、地域の妊婦や住民に戸惑いと落胆の声が広がっている。
伊藤允久市長は(中略)男性医師が「心身ともに疲れ、休みたい。一部の議員の批判的な発言で気持ちの糸が切れてしまった」と話していることも明かした。
(中略) <交渉の経緯> 8月末日の契約切れを前に、7月から続けられた。市側は、給与面などほかの医師との格差や出産数の減少などを理由に4800万円への減額を要求した。しかし、男性医師は過酷な勤務実態を理由に、現行額の維持と月1回の週末休みかそれに代わる補償を求め、交渉は難航していた。
【注】
一人の医師に超人的な不眠不休の努力を共用することの無理さになぜ地方の住民、役人、政治家は気がつかないのだろう。「一部の議員の批判的な発言で気持ちの糸が切れてしまった」との医師の言葉はこの献身的な医師がこの一年いかに報いられていなかったかを如実にあらわしている。
伊藤市長によると、七月中旬から八月中旬までの二年目の更新交渉で、「最長で来年三月まで残る、と医師から言われていた」といい、同市長が八月二十一日、市議会に交渉経過を説明し、二十五日に再度開いた市議会委員会で交わされた、一部市議の「三千万円出せば大学病院の助教授が飛んでくるのに、四千八百万円は高過ぎる」「津で開業したころのうわさもいろいろ聞こえてくるのに」などの意見を知った医師が「残る気持ちをなくした」という。
伊藤市長はこれまで「医師は非常に責任感が強く、交渉が不調に終わっても、三カ月は残ってくれる」と繰り返していたが、八月三十日夜の交渉で、医師は市議会での議論を引き合いに出し「気持ちが続かない。九月中の出産予定者までは引き受ける」と期間短縮を申し出た上「事故があったら大変だから」と語ったという。