CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ)

神戸・岩国の最新情報を中心に紹介していきます。歴史や時事について調べた結果を紹介。

東尾理子 第2子妊娠か

2015年08月16日 06時48分06秒 | Weblog
東尾理子 第2子妊娠か、つわり始まる 力強い心拍見えた

プロゴルファーの東尾理子(40)が15日、ブログでつわりが始まったことを報告した。東尾は2012年に第1子を出産し、昨年から第2子妊娠に向けて不妊治療を再開していた。

 東尾は「ち〜いさい動きだけど、ピコピコピコピコって力強く動いてくれてる心拍が見えました。また大きな前進。喜び。と同時に、つわりも始まってて…」と記した。眠気とだるさ、吐き気があるそうで、「この暑さも重なって、頑張りたくても頑張りきれず、周りに助けてもらいながら、ゆっくり過ごしてます」と周囲に助けられていることを明かした。

 続けて、「また2週間後に検診行って大丈夫だったら、TGP病院を卒業です。無事に卒業出来るといいな」と、つづった。

 東尾は俳優の石田純一(61)と結婚後、2年間の不妊治療の末、12年11月5日に第1子の長男・理汰郎君を出産。昨年8月から第2子妊娠に向けて不妊治療を再開し、11月には着床に成功したものの不十分で、12月に化学流産している。

 7月24日に、ブログで「着床してくれたみたい」と報告していた。


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村上華岳の邸宅跡の碑と金山平三の旧宅跡の碑 in 花隈自治会館前 on 2015-8-13

2015年08月15日 11時02分19秒 | 神戸情報
花隈自治会館前に村上華岳の邸宅跡の碑と金山平三の旧宅跡の碑があります。
2015年8月13日に上記の石碑写真を撮りましたので紹介します。


上の写真は花隈自治会館の遠景です。
花隈自治会館の所在地は神戸市中央区花隈町17-17
 Goo地図はこちら



上の写真は村上華岳の邸宅跡の碑です。

石碑には「村上華岳先生邸址」と書かれており金井元彦兵庫県知事の揮毫で
昭和41(1966)3月吉日に書かれた事が記されています。


村上 華岳(むらかみ かがく)先生についてWikipediaより引用紹介します。
 一部加筆

村上華岳(1888年(明治21年)7月3日生 - 1939年(昭和14年)11月11日)は、
大正~昭和期の日本画家。

1888年(明治21年)、大阪(北区松ヶ枝町[1])に生まれる。本名は武田震一
(のち村上震一)。家庭の事情により幼い頃に実父母のもとを離れ、叔母の嫁ぎ先
である神戸の村上家に預けられて、神戸の尋常小学校(現こうべ小学校)に通った。
尋常小学校時代に描いた校長先生像は額装され掲示されていたそうです。
1901年(明治34年)、震一13歳の時には実父が死に、実母は再婚して行方知れずと
なり、少年であった震一が武田家の家督を継ぐこととなった。
3年後の1904年(明治37年)、武田家の廃家が許可され、震一は養父母の姓である
「村上」を名乗ることとなる。父方の祖母は、日本初の感化院とされる
「池上感化院」を自宅に設立した池上雪枝[2]。

華岳こと村上震一は、1903年(明治36年)から1907年(明治40年)まで
京都市立美術工芸学校に学ぶ。1909年(明治42年)には上級学校である
京都市立絵画専門学校(現:京都市立芸術大学)に入学して1911年(明治44年)
に卒業。卒業と同時に同専門学校研究科に進学、1913年(大正2年)に修了。
1908年(明治41年)から文展に出品を始めた。京都市立絵画専門学校の卒業制作
『早春』(のち『二月の頃』と改題)は京都の吉田山から銀閣寺方面を眺めた
田園風景を遠近法を用いて俯瞰的に描写したもので、1911年(明治44年)の
第5回文展で褒状を受けている。1916年(大正5年)には華岳にとって初の仏画
である『阿弥陀之図』が第10回文展特選となっている。
その頃神戸YMCAでインドの詩人タゴールに会い強く影響を受け肖像画も描いた。
中略
1923年(大正12年)には京都から今の兵庫県芦屋市に転居し、さらに1927年
(昭和2年)には神戸市花隈に転居している。
以後の華岳は京都の画壇とは距離を置きつつ、個性的な山水図や牡丹図、
水墨にプラチナ泥(でい)を併用した仏画などを残している。
華岳の描く仏や菩薩は1920年(大正9年)の『裸婦図』の系譜を引いており、
世俗性と精神性、妖艶さと聖性、官能美と悟りの境地という相反する要素が
不思議に調和している。華岳の仏画は20世紀の宗教絵画の最高峰と言って
過言ではないであろう。1939年(昭和14年)、喘息のため51歳で死去した。


村上華岳先生の作品などの画像 By Google
 http://www.google.co.jp/search?q=%E6%9D%91%E4%B8%8A%E8%8F%AF%E5%B2%B3%E3%80%80&hl=ja&qscrl=1&nord=1&rlz=1T4GGHP_jaJP439JP439&biw=1249&bih=504&site=webhp&prmd=imvnso&tbm=isch&tbo=u&source=univ&sa=X&ei=FjOSTtzYCqSbmQW0hcQe&sqi=2&ved=0CDwQsAQ





上の写真は洋画の巨匠金山平三先生の旧宅跡の碑です。

碑には「金山画伯旧宅之地」と書かれています。

金山平三についてWikipedia より引用紹介します。
金山 平三(かなやま へいぞう,1883年 (明治16年) 12月18日 -
1964年 (昭和39年) 7月15日)は、大正・昭和期の洋画家である。

1883年(明治16年)兵庫県神戸区(現在の神戸市中央区)元町通3丁目に金山春吉、
ひさの第四子として生まれる。1905年(明治38年) 9月東京美術学校
(現在の東京藝術大学)西洋画科本科に入学する。主任教授である黒田清輝らに
師事し、1909年(明治42年) 3月東京美術学校西洋画科を首席で卒業する。
4月には同校西洋画科研究科に進み助手となる。しかし1911年(明治44年) 2月15日付
で退学し神戸へ帰る。1912年(明治45年) 1月20日に日本郵船平野丸で神戸港を出発
して、パリに3月7日に到着する。28歳から31歳までの4年近くの間は、パリを拠点に
ヨーロッパ各地へ写生旅行に赴く。そして1915年(大正4年) 9月27日にパリを出発して、
10月3日マルセイユ港を出帆して11月に神戸港に到着、帰国して神戸市神戸花隈町
(現在の中央区花隈町)の自宅(1898年に転居)に戻る。

1945年(昭和20年) 3月17日の神戸大空襲で実家が罹災し、作品が焼失する。
5月には最上川をはさんで大石田(現在の山形県北村山郡大石田町)の対岸に位置する
北村山郡横山村に疎開する。

1961年(昭和36年) 6月には、最晩年の重要な支援者である故郷神戸の川崎重工業
株式会社に自選作品100点(翌年38点追加)の永久保管を願い出て、同社によって
嘱託として処遇されて、夫妻でのヨーロッパ再訪旅行(9月-12月)の機会を得る。
1964年(昭和39年) 6月に入院し、7月15日死去(享年81歳)。遺志によって本葬儀
は行われず、叙位・叙勲もすべて辞退している。
神戸市営追谷墓地に埋葬されている。

夫人の金山らく(旧姓:牧田)は、東京女子高等師範学校(現在のお茶の水女子大学)
を経て東北帝国大学理科大学を卒業。女性初の帝国大学卒業生であり、
東北帝国大学に在籍して数学研究を続けていた。1917年4月に平三と見合いをした。


これまで紹介してきた村上華岳の邸宅跡の碑と金山平三の旧宅跡の碑は
元々他の位置に設置されていたものを移設したもので元の設置場所は
中央区役所監修の中央区 神戸歴史トリップ MAPの元々の位置が記されて
いるので添付した。(下の写真)





現地には椙元紋太(1890-1970)の川柳の歌碑が設置されていました。
(上の2枚の写真)







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田中毅氏の彫刻作品「天空の門にて(’91詩人)」 on 2015-8-13

2015年08月14日 09時59分11秒 | 神戸情報
大倉山公園の南側入り口の田中毅氏の彫刻作品「天空の門にて(’91詩人)」
の写真を撮りましたので紹介します。



2015年8月13日、神戸市立中央図書館に行った時に撮影しました。

彫刻作品「天空の門にて(’91詩人)」の基本情報
作者: 田中毅
設置場所:大倉山公園南側入り口
製作年:1991?

メモ:神戸国際港都建設事業生田地区
    復興土地区画整理事業 完成記念
     事業着手 昭和21年9月
     事業完成 平成 2年9月


作者田中毅(つよし)氏の略歴

1951 宮崎県青島生まれ
1977 東京芸術大学大学院彫刻専攻修了
1984 「現代のユーモア」展(埼玉県近代美術舘)
1985 神戸具象彫刻大賞展《大賞》
1987 「彫刻動物園」(栃木県立美術館)
  長野市野外彫刻賞

1989 横浜彫刻展《入賞》
  神戸具象彫刻大賞展招待参加《優秀賞》
1994 現代日本具象彫刻展《大賞》
  倉敷まちかど彫刻展《入賞》
1997 ふれあい彫刻展(宮崎県立美術館)
2000 むし虫ワールド(群馬県立近代美術館)
  足立区野外彫刻コンクール(入賞)
2002 日向現代彫刻展(市民大賞)


大石石材店のサイトに田中毅氏の作品が写真と共に紹介されています。
リンクさせていただきます。

 http://www.oishi-sekizai.jp/tanaka.htm


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鬼塚古墳 (照光寺境内)on 2015-6-3

2015年08月13日 11時15分07秒 | 神戸情報
2015年6月3日、神戸市灘区篠原南町6丁目の照光寺の中にある鬼塚古墳の写真を
撮ってきましたので紹介そます。

照光寺の基本情報
住所:神戸市灘区篠原南町6丁目1-4 TEL:078-861-0538
宗派:浄土真宗  
公式HP:http://tera-map.com/list/faction-56.html

所在地のGoo地図はこちら


照光寺に掲示されていた説話(下の写真)



上の写真は照光寺の遠景。
照光寺の前には灘温泉があります。(下の写真)







上の2枚の写真は鬼塚古墳です。

奥行3m 幅2mの玄室を有する横穴式石室で出土した人骨、須恵器、鉄器などから
古墳時代後期(6世紀)の円墳の一部と同定されています。


上の写真は鬼塚古墳の説明版。




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菅・翁長氏会談、歩み寄り見られず…普天間移設

2015年08月13日 08時01分51秒 | Weblog
菅・翁長氏会談、歩み寄り見られず…普天間移設


菅官房長官は2015年8月12日、米軍普天間飛行場(宜野湾市)の名護市辺野古への移設問題を巡り、 翁長 おなが 雄志 たけし 知事と県庁で約1時間会談した。

 政府は9月9日まで移設作業を全て中断し、県と集中協議を行うとしており、この日が初会合となった。菅氏が同飛行場の危険性除去と移設の必要性について理解を求めたのに対し、翁長氏は米軍基地建設の歴史的経緯を踏まえて反論するなど、歩み寄りは見られなかった。

 菅氏は会談で、1996年の日米両政府の合意に触れながら、「日米で普天間飛行場の閉鎖、代替案として県内移設(に合意した)。そこが原点だ」として、移設の正当性を訴えた。翁長氏は「住民がいない間に強制収用されて造られたのが原点だ。世界一危険になったから、お前たち(代替案を)出せというのは理不尽だ」と述べた。

 菅氏は会談後、記者団に「お互いに大きな距離があった」と述べ、溝が埋まらなかったことを認めた。政府と県は今後、事務レベルを含め4回会談を行う方向だ。
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錦織、ストレート勝ちで初戦突破!マスターズ初Vへ好発進

2015年08月13日 05時03分53秒 | Weblog
錦織、ストレート勝ちで初戦突破!マスターズ初Vへ好発進

テニスのロジャーズ杯は2015年8月12日(日本時間13日)にモントリオールで行われ、男子シングルスで世界ランキング4位の第4シード・錦織圭(25=日清食品)は、初戦となる2回戦で世界ランキング48位のパブロ・アンドゥハール(29=スペイン)と対戦。6―3、6―3で下し、順当に3回戦進出を決めた。試合時間は1時間11分だった。

 アンドゥハールとの対戦成績は3勝1敗。昨年の全米オープン2回戦では6−4、6−1と2セットを奪ったところで相手が棄権し勝利、今年のバルセロナ・オープン決勝では6−4、6−4で下し2連勝中の相手に、この日も力の差を見せつけた。
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モッチモ・パスタ 須磨店でのランチ on 2015-7-26

2015年08月12日 05時44分37秒 | 神戸情報
本日は2015年7月26日(日)に食べたモッチモ・パスタ 須磨店でのランチを
写真紹介します。

モッチモ・パスタ須磨店の基本情報
住所:神戸市須磨区多井畑東町22-1  TEL:078-791-0300
ジャンル:パスタ  定休日:1月1日を除き無休
営業時間:11:00~21:30 金、土、日は22:00まで
料理ジャンル:イタリア料理 イタリアン


お店のHP(グルナビ)

注文したのはモッチモパスタランチ 1,280円(税抜き)です。


まずサラダがでてきます


次にハーフバケット。
種類ははちみつ、明太子、本日のバケット


上の写真は奥様が選択した和風ソースのパスタ。


上の写真は私がチョイスしたトマトソースのパスタ。


上の写真はデザート4種盛り 200円(税抜き)





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ピッツェリア・OTTO でのランチ on 2015-8-5

2015年08月12日 04時41分27秒 | 神戸情報
2015年8月5日(水)にピッツェリア・OTTO でランチをいただきましたので
写真紹介します。
Costa Suma Pizzeria OTTO Caffe

ピッツェリア・OTTOの基本情報
住所:神戸市須磨区須磨浦通2丁目1−50 TEL:078-734-1300
営業時間:ランチ11:30~
定休日:月曜  料理ジャンル:イタリア料理
国道2号線沿いでシーパル須磨と野村海浜病院の間にあります。

食べログによる口コミ

当日注文したのは1,900円(税込)の大皿取り分けのセットです。

ランチメニューは他に Aのパスタ 1,350円(税込)
Bのピザ 1,500円(税込)があります一覧は下の看板の写真







まず前菜とパンが出てきます。(上の写真)


次にピザが来ます。


続いてパスタ。ピザですでに満腹の状態に近くパスタは完食がきつい。




上の2枚の写真は別料金のデザート(350円)とセットドリンク(150円)




上の2枚の写真はお店の外側から撮りました。

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「海龍」下田沖で発見 旧海軍開発の特殊潜航艇  By 中日新聞プラス

2015年08月11日 14時39分26秒 | Weblog
「海龍」下田沖で発見 旧海軍開発の特殊潜航艇

中日新聞プラス 2015-8-11 5:00◆艇首に爆薬 移動中に座礁?
 旧日本海軍が特攻兵器を想定して開発した特殊潜航艇「海龍(かいりゅう)」とみられる船体が、下田港沖の海底で見つかった。県東部・伊豆地区の下田市と沼津市に海龍の出撃基地があり、過去に熱海市や下田市で二隻が発見されている。戦後七十年で発見した下田市の海洋調査会社の杉本憲一社長(68)は「戦争を考える時、実際に遺物があれば訴求力がある。歴史を反省し、これからの在り方を考えるきっかけになれば」と意義を強調した。
 杉本さんの会社「ウインディーネットワーク」は、全国で戦争遺産の調査を手掛ける。戦後七十年の節目には地元で発掘しようと、八月四〜五日に下田沖で音波と潜水による調査を行い、下田港灯台の南二百五十メートル、深さ三十五メートルの位置に船体を見つけた。長さ十七メートル、幅一メートル強で潜望鏡の部分が凸状になっている特徴から、海龍にほぼ間違いないという。
 艇首と艇尾は見える状態で水平に横たわり、さびで赤茶けて貝殻などが付着していた。潜望鏡のある部分は一部が破損。海龍は胴体左右に翼があり、翼のフラップを操作して上昇や下降をするが、翼は砂に埋もれて見えない。
 海龍は本土決戦に備えて開発されたが、実戦では使われなかった。防衛省資料によると、一九四五(昭和二十)年、神奈川県の横須賀鎮守府の指揮下に突撃隊が組織され、七月に下田に十二隻、沼津市江浦に二十四隻の配備命令が出ている。終戦直前に横須賀から油壺基地(神奈川県三浦市)や熱海付近を経由して、下田や沼津へ向かったという。
 七八年五月に熱海市網代沖、九九年九月に下田港灯台付近で、海龍とみられる潜航艇が見つかった。熱海市資料によると、網代沖で米軍の襲撃を受けて沈没したもの。下田沖の艇は戦後、艇首部分の爆薬を外して胴体部分を沈めたものだった。
 今回、下田沖で見つかった船体は爆薬の艇首部分が残っている。広島・江田島の海軍兵学校第七十四期生が九五年に発行した記念誌「江鷹(こうよう)」に寄せた元突撃隊の青山陸朗(りくろう)さん(故人)の手記は「八月十一日に横須賀から四艇が沼津の江浦に向かい、下田市須崎付近の海岸で一艇が座礁した」と記している。場所も一致しており、今回見つかった海龍とみられる。
 七十四期生のひとり徳山昭秀さん(88)=下田市白浜=は「戦後七十年がたち、若い人は海龍の名も知らないだろう。終戦がもう少し遅ければ伊豆半島が特攻の基地になり自爆する若者が出ていたことを忘れてはいけない」と話した。
(斉藤明彦)
<海龍> 旧日本海軍の2人乗り潜航艇。胴体側部に翼があるのが特徴で魚雷2本を備える構造だったが、艇首に600キロ爆薬を詰めた特攻兵器の使用が想定され「人間魚雷」ともいわれた。1945(昭和20)年春以降に製造が急激に進み、7月下旬までに224隻が完成。太平洋沿岸に基地が造られた。78年に熱海市網代沖で海龍が引き上げられ、大和ミュージアム(広島県呉市)で展示。99年にも下田港沖の海底で海龍とみられる艇が見つかっている。



関連サイト:大津島回天基地跡訪問記 on 2005-5-2

上記訪問時(2005-5-2)に撮った写真の一部

 

 

 

 
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長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典 NHKテレビライブ中継を視聴して on 2015-8-9

2015年08月10日 05時04分32秒 | Weblog

2015年8月9日10時30分より11時50分までNHKテレビで表題の長崎平和祈念式典
の中継番組が放映されました。式典の内容を写真紹介します。


式典の流れに沿って写真紹介していきます。


上の写真は式典の会場となった長崎市 平和公園

0. 被爆者歌う会「ひまわり」の合唱、開式




司会者は地元の高校生が担当しました(下の写真)


次に長崎「平和の鐘」(下の写真)が鳴り響きます

 
1.原爆死没者名奉安
 

 

新たに3,373名の原爆死没者名簿が奉安された。
累計で16万8,767人



2.式辞
3.献水


4.献花






5.黙とう 原爆が投下された11時2分、長崎の鐘と共に1分間の黙とう
  遺族や被爆者代表、安倍晋三首相ら約5600人が黙とうした。

6.長崎平和宣言(田上富久市長)




 <長崎原爆の日>平和宣言全文  毎日新聞 8月9日(日)11時16分配信

「大量の放射線が人々の体をつらぬき、想像を絶する熱線と爆風が街を襲いました。24万人の市民のうち、7万4千人が亡くなり、7万5千人が傷つきました。70年は草木も生えない、といわれた廃墟の浦上の丘は今、こうして緑に囲まれています。しかし、放射線に体を蝕(むしば)まれ、後障害に苦しみ続けている被爆者は、あの日のことを1日たりとも忘れることはできません。

 原子爆弾は戦争の中で生まれました。そして、戦争の中で使われました。

 原子爆弾の凄(すさ)まじい破壊力を身をもって知った被爆者は、核兵器は存在してはならない、そして二度と戦争をしてはならないと深く、強く、心に刻みました。日本国憲法における平和の理念は、こうした辛(つら)く厳しい経験と戦争の反省の中から生まれ、戦後、我が国は平和国家としての道を歩んできました。長崎にとっても、日本にとっても、戦争をしないという平和の理念は永久に変えてはならない原点です。

 今、戦後に生まれた世代が国民の多くを占めるようになり、戦争の記憶が私たちの社会から急速に失われつつあります。長崎や広島の被爆体験だけでなく、東京をはじめ多くの街を破壊した空襲、沖縄戦、そしてアジアの多くの人々を苦しめた悲惨な戦争の記憶を忘れてはなりません。

 70年を経た今、私たちに必要なことは、その記憶を語り継いでいくことです。

 原爆や戦争を体験した日本、そして世界の皆さん、記憶を風化させないためにも、その経験を語ってください。

 若い世代の皆さん、過去の話だと切り捨てずに、未来のあなたの身に起こるかもしれない話だからこそ伝えようとする、平和への思いをしっかりと受け止めてください。「私だったらどうするだろう」と想像してみてください。そして、「平和のために、私にできることは何だろう」と考えてみてください。若い世代の皆さんは、国境を越えて新しい関係を築いていく力を持っています。

 世界の皆さん、戦争と核兵器のない世界を実現するための最も大きな力は私たち一人ひとりの中にあります。戦争の話に耳を傾け、核兵器廃絶の署名に賛同し、原爆展に足を運ぶといった一人ひとりの活動も、集まれば大きな力になります。長崎では、被爆二世、三世をはじめ、次の世代が思いを受け継ぎ、動き始めています。

 私たち一人ひとりの力こそが、戦争と核兵器のない世界を実現する最大の力です。市民社会の力は、政府を動かし、世界を動かす力なのです。

 今年5月、核不拡散条約(NPT)再検討会議は、最終文書を採択できないまま閉幕しました。しかし、最終文書案には、核兵器を禁止しようとする国々の努力により、核軍縮について一歩踏み込んだ内容も盛り込むことができました。

 NPT加盟国の首脳に訴えます。

 今回の再検討会議を決して無駄にしないでください。国連総会などあらゆる機会に、核兵器禁止条約など法的枠組みを議論する努力を続けてください。

 また、会議では被爆地訪問の重要性が、多くの国々に共有されました。

 改めて、長崎から呼びかけます。

 オバマ大統領、核保有国をはじめ各国首脳の皆さん、世界中の皆さん、70年前、原子雲の下で何があったのか、長崎や広島を訪れて確かめてください。被爆者が、単なる被害者としてではなく、“人類の一員”として、今も懸命に伝えようとしていることを感じとってください。

 日本政府に訴えます。

 国の安全保障は、核抑止力に頼らない方法を検討してください。アメリカ、日本、韓国、中国など多くの国の研究者が提案しているように、北東アジア非核兵器地帯の設立によって、それは可能です。未来を見据え、“核の傘”から“非核の傘”への転換について、ぜひ検討してください。

 この夏、長崎では世界の122の国や地域の子どもたちが、平和について考え、話し合う、「世界こども平和会議」を開きました。

 11月には、長崎で初めての「パグウォッシュ会議世界大会」が開かれます。核兵器の恐ろしさを知ったアインシュタインの訴えから始まったこの会議には、世界の科学者が集まり、核兵器の問題を語り合い、平和のメッセージを長崎から世界に発信します。

 「ピース・フロム・ナガサキ」。平和は長崎から。私たちはこの言葉を大切に守りながら、平和の種を蒔(ま)き続けます。

 また、東日本大震災から4年が過ぎても、原発事故の影響で苦しんでいる福島の皆さんを、長崎はこれからも応援し続けます。

 現在、国会では、国の安全保障のあり方を決める法案の審議が行われています。70年前に心に刻んだ誓いが、日本国憲法の平和の理念が、今揺らいでいるのではないかという不安と懸念が広がっています。政府と国会には、この不安と懸念の声に耳を傾け、英知を結集し、慎重で真摯(しんし)な審議を行うことを求めます。

 被爆者の平均年齢は今年80歳を超えました。日本政府には、国の責任において、被爆者の実態に即した援護の充実と被爆体験者が生きているうちの被爆地域拡大を強く要望します。

 原子爆弾により亡くなられた方々に追悼の意を捧げ、私たち長崎市民は広島とともに、核兵器のない世界と平和の実現に向けて、全力を尽くし続けることを、ここに宣言します。

 2015年(平成27年)8月9日 長崎市長 田上富久」



7.平和への誓い 被爆者代表 谷口稜曄さん(86)














平和への誓い 全文

「70年前のこの日、この上空に投下されたアメリカの原爆によって、一瞬にして7万余の人々が殺されました。真っ黒く焼け焦げた死体。倒壊した建物の下から助けを求める声。肉はちぎれ、ぶらさがり、腸が露出している人。かぼちゃのように膨れあがった顔。眼(め)が飛び出している人。水を求め浦上川で命絶えた人々の群れ。この浦上の地は、一晩中火の海でした。地獄でした。地獄はその後も続きました。火傷(やけど)や怪我(けが)もなかった人々が、肉親を捜して爆心地をさまよった人々が、救援・救護に駆け付けた人々が、突然体中に紫斑が出、血を吐きながら、死んでいきました。

 70年前のこの日、私は16才。郵便配達をしていました。爆心地から1・8キロの住吉町を自転車で走っていた時でした。突然、背後から虹のような光が目に映り、強烈な爆風で吹き飛ばされ道路に叩(たた)きつけられました。

 しばらくして起き上がってみると、私の左手は肩から手の先までボロ布を下げたように、皮膚が垂れ下がっていました。背中に手を当てると着ていた物は何もなくヌルヌルと焼けただれた皮膚がべっとり付いてきました。不思議なことに、傷からは一滴の血も出ず、痛みも全く感じませんでした。

 それから2晩山の中で過ごし、3日目の朝やっと救助されました。3年7か月の病院生活、その内の1年9か月は背中一面大火傷のため、うつ伏せのままで死の淵(ふち)をさまよいました。

 そのため私の胸は床擦れで骨まで腐りました。今でも胸は深くえぐり取ったようになり、肋骨(ろっこつ)の間から心臓の動いているのが見えます。肺活量は人の半分近くだと言われています。

 かろうじて生き残った者も、暮らしと健康を破壊され、病気との闘い、国の援護のないまま、12年間放置されました。アメリカのビキニ水爆実験の被害によって高まった原水爆禁止運動によって励まされた私たち被爆者は、1956年に被爆者の組織を立ち上げることができたのです。あの日、死体の山に入らなかった私は、被爆者の運動の中で生きてくることができました。

 戦後日本は再び戦争はしない、武器は持たないと、世界に公約した「憲法」が制定されました。しかし、今集団的自衛権の行使容認を押しつけ、憲法改正を押し進め、戦時中の時代に逆戻りしようとしています。今政府が進めようとしている戦争につながる安保法案は、被爆者を始め平和を願う多くの人々が積み上げてきた核兵器廃絶の運動、思いを根底から覆そうとするもので、許すことはできません。

 核兵器は残虐で人道に反する兵器です。廃絶すべきだということが、世界の圧倒的な声になっています。

 私はこの70年の間に倒れた多くの仲間の遺志を引き継ぎ、戦争のない、核兵器のない世界の実現のため、生きている限り、戦争と原爆被害の生き証人の一人として、その実相を世界中に語り続けることを、平和を願うすべての皆さんの前で心から誓います。

平成27年8月9日

被爆者代表 谷口稜曄(すみてる)」



8.児童合唱(城山小学校 児童)





 

9.来賓挨拶
(1)安倍首相挨拶




安倍首相挨拶全文
「本日ここに、被爆七十周年長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典が執り行われるに当たり、原子爆弾の犠牲となられた数多くの方々の御霊(みたま)に対し、謹んで、哀悼の誠を捧げます。
そして、被爆による後遺症に、今なお苦しんでおられる方々に対し、衷心よりお見舞いを申し上げます。

 あの日投下された原子爆弾により、長崎の地が、草木もない焦土と化してから七十年が経ちました。当時、七万ともいわれる、あまたの貴い命が奪われました。惨禍の中、生き長らえた方々にも、筆舌に尽くしがたい苦難の生活をもたらしました。

 しかし、苦境の中から力強く立ち上がられた市民の皆様によって、世界文化遺産と美しい自然に恵まれた国際文化都市が、見事に築き上げられました。

 今日の復興をなし遂げた長崎の街を見渡すとき、改めて平和の尊さを嚙(か)みしめています。そして、世界で唯一の戦争被爆国として、非核三原則を堅持しつつ、「核兵器のない世界」の実現に向けて、国際社会の核軍縮の取組を主導していく決意を新たにいたしました。

 特に本年は、被爆七十年という節目の年です。核兵器不拡散条約(NPT)運用検討会議では、残念ながら最終合意には至りませんでしたが、我が国としては、核兵器国と非核兵器国、双方の協力を引き続き求めつつ、「核兵器のない世界」の実現に向けて、一層の努力を積み重ねていく決意です。この決意を表明するため、本年秋の国連総会に新たな核兵器廃絶決議案を提出いたします。

 八月末に広島で開催される包括的核実験禁止条約 賢人グループ会合並びに国連軍縮会議に続き、十一月には、パグウォッシュ会議がここ長崎で開催されます。更に来年には、G7外相会合が広島で開催されます。これらの国際会議を通じ、被爆地から我々の思いを、国際社会に力強く発信いたします。また、世界の指導者や若者が被爆の悲惨な現実に直(じか)に触れることを通じ、「核兵器のない世界」の実現に向けた取組を前に進めてまいります。

 今年、被爆者の方々の平均年齢が、はじめて八十歳を超えました。高齢化する被爆者の方々に支援を行うために制定された「原子爆弾被爆者に対する援護に関する法律」も、施行から二十年を迎えました。引き続き、保健、医療、福祉にわたる総合的な援護施策を、しっかりと進めてまいります。

 特に、原爆症の認定につきましては、申請された方々の心情を思い、一日も早く認定がなされるよう、審査を急いでまいります。

 結びに、亡くなられた方々のご冥福と、ご遺族並びに被爆者の皆様のご多幸をお祈り申し上げるとともに、参列者並びに長崎市民の皆様のご平安を祈念いたしまして、私のご挨拶(あいさつ)といたします。

平成二十七年八月九日

内閣総理大臣・安倍晋三」



(2)パン・ギムン(潘基文)国連事務総長 
      代読は国連 事務次長のキム・ウォンス氏 挨拶


全文は以下のとおり。

キム・ウォンス 軍縮担当上級代表代行が代読

「この美しい街に原爆が投下されてから70年の節目にあたり、平和祈念式典に参列された皆様にご挨拶できることを光栄に思います。式典を組織された方々と、ここにお集まりになられた方々全員に感謝いたします。

市民の皆様は、長崎を最後にしなければならないという力強いメッセージを世界に伝えています。私たちは将来、核兵器の使用を許してはなりません。その人道的な影響はあまりにも大きすぎるからです。

私は心から、皆様とともに「ノーモア・ナガサキ、ノーモア・ヒロシマ」の声を全世界に響かせたいと思っています。

私は5年前、ここ長崎を訪れ、1945年8月9日の恐ろしい出来事を、平和希求の高らかな呼びかけへと変えていった市民の力に、深い感銘を受けました。

長崎はこの点で、一致団結しています。市長をはじめとする公選の役職者も、市民社会組織も、学術団体も、学生も、そして被爆者をはじめとする市民の方々も、核兵器のない世界の実現に向けて国際社会を結束させるよう、全世界の各方面に働きかけていきました。

私は被爆者の皆様に敬意を表します。これら生存者の方々は、より良い未来に向けた期待を絶えず表明することで、この人為的な悲劇に人間の顔を与えているのです。

被爆者の平均年齢が80歳を過ぎた中で、私は世界から核兵器を一掃することにより、その遺産に報いなければならないという緊迫感を募らせています。

私が5年前に立てた長崎市民との連帯の誓いが揺らぐことは、決してありません。私たちの共通の目標を実現するため、私は積極的な活動を続けています。世界は70年というあまりにも長い間、核の影におびえて暮らしてきたからです。

田上市長の言葉にもあったとおり「人間が作った核兵器は人間が克服できます。人間こそが核兵器を廃絶できるのです」。

国連はこの目標の達成に向け、全世界の人々を動員していきます。」



Delivered by Mr. Kim Won-soo, Acting High Representative for Disarmament Affairs

It is my honour to greet all those attending this Peace Memorial Ceremony commemorating 70 years since the bombing of this beautiful city. I thank the organizers and all those who gather here.

The people of this city carry a powerful message for the world: Nagasaki must be the last. We cannot allow any future use of nuclear weapons. Their humanitarian consequences are too great.

I wholeheartedly join you in sounding a global rallying cry: No more Nagasakis. No more Hiroshimas.

When I visited your city five years ago, I was deeply inspired by the strength of its people, who have transformed the awful events of 9 August 1945 into a resounding call for peace.

Nagasaki is united on this point. Your mayors and other elected officials, your civil society groups, your academics, your students and your citizens – led by the hibakusha – have reached out to all corners of the world to unite the international community in pursuit of a world free of nuclear weapons.

I salute the hibakusha. These survivors present the human face of this man-made tragedy, refusing to relent in advocating hope for a better future.

As the average age of the hibakusha passes 80, I feel a growing sense of urgency to honour their legacy by finally ridding the world of nuclear weapons.

My pledge five years ago to stand in solidarity with the citizens of Nagasaki will never waver. I am proactively working to realize our common goal. Seven decades is far too long for the world to have lived in the nuclear shadow.

As Mayor Taue has said, “Nuclear weapons were made by humans, and humans can conquer them; humans can abolish nuclear weapons.”

The United Nations will mobilize the world’s peoples to achieve this goal.

(3)中村長崎県知事挨拶 略


10.合唱 千羽鶴(純心女子高校)







11.閉式


NHKテレビ番組では長崎原爆を象徴する下記3か所を紹介

(1)長崎原爆投下 爆心地
   

   

(2)山王神社
   

   

   

(3)長崎西高校

   

   
 


















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