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英雄たちの選択「スカウトされた大王~地方出身!継体天皇の実像~」を視聴して

2020年08月07日 05時46分13秒 | Weblog

2020年4月22日(水)の20:00、NHKBSプレミアムの放送は表題のテーマで放送された。

最近録画で撮ってあったものを視聴しましたので内容を簡単に紹介していきます。

第26代継体天皇(450?-531)を一言で表現すると、表題の他に次のように表現できる。

大王の在位期間:507年2月ー531年3月10日?

ー20余年を要してヤマト王権を立て直した応神天皇五世孫

ー遠く北陸からやって来た異色の大王・継体天皇

番組の内容概要

まだ日本が倭国と呼ばれていた6世紀はじめ、ヤマト政権にかつてない大王が登場する。地方の王族出身の継体天皇だ。なぜ地方出身の大王が誕生したのか?そこにはカリスマだった第21代雄略天皇死後のヤマトの衰退と地方勢力の台頭があった。仁徳天皇系の最後の天皇、第25代武烈天皇には子がいなかった。ヤマトの有力な豪族物部氏や大伴氏は力量のある大王探しに奔走した結果、ふさわしい人物として天皇家の系列としては弱いものの応神天皇の五世孫の継体天皇に行き着く。新たな大王に選ばれた継体天皇の力の源泉は、地方豪族の後押しと朝鮮半島・百済王との親交、そして戦略物資・鉄の掌握だった。最後にライバルとして登場するのは九州の大豪族磐井氏。継体天皇の選択は?

出演者

【司会】磯田道史,杉浦友紀,【出演】水谷千秋,松木武彦,萱野稔人,【語り】松重豊

 

生誕

450年、男大迹王(をほどのおう)=継体天皇は近江国高嶋郡の三尾(滋賀県高島市)で

生まれました。父の彦主人王(ひこうしのおう)、別名は汙斯王(うしのおおきみ)が

早くに亡くなった為、母親の振媛(ふるひめ)の故郷である越国の高向(福井県の

坂井市)で育てられました。

上の写真は継体天皇の生まれ故郷近江(滋賀県高島市)

上の写真は男大迹王(継体天皇)の父親(彦主人王)が眠っているとされる

田中王塚古墳について説明された高島市教育委員会の白井忠雄さん。

直径58m、この地方で飛びぬけて規模が大きい100年くらいの期間に70基の古墳が造営

男大迹王の父親は地域を治める王として君臨していた。

上の3枚の写真は鴨稲荷山古墳に関する説明。6世紀前半、墳丘は約50m

被葬者は継体天皇を支えた地元の有力豪族三尾氏の首長、継体天皇の皇子などの説

朝鮮半島新羅との交流の証拠である豪華な出土品が出土しています。

上の写真は国立歴史民族博物館 准教授 高田貫太さんからの解説

大陸(朝鮮半島)百済の武寧王との関係を示す証拠の品(隅田八幡神社人物画像鏡)

 

上の写真は隅田八幡神社人物画像鏡の解説

出典:詳説 日本史図録 第2版 山川出版社(2008)Page29

 

大王に擁立

後継者のいない武烈大王の死によって、王統の断絶という事態に直面したヤマト王権は

大連の大伴金村(おおとものかなむら)や物部麁鹿火(もののべのあらかひ)らが擁立

したのが応神天皇の五世孫の男大迹王(継体天皇)である。継体は奈良時代につけられた。

男大迹王は元々尾張の豪族尾張 草香(おわりのくさか)の娘の目子媛(めのこひめ)と

婚姻関係にあったが、24代仁賢天皇の娘の手白香皇女(たしらかのひめみこ)と結婚し

507年に大王となります。

上の写真は継体天皇と雄略天皇を中心とした系図。赤の✖印は雄略天皇により殺された

政敵。このことで仁徳系の系統が武烈天皇で止まることとなった。

上の写真は目子媛の出身地尾張の豪族、尾張氏の首長墓に比定の断夫山古墳

目子媛の父親の尾張草香の墓の可能性もある。名古屋市熱田区、6世紀前半、150m長

上の写真は春日井市にある味美二子山古墳 6世紀初頭 94m長

被葬者は不詳、この地方の有力豪族とみられる。

 

 

王権を支えた勢力

即位後の継体天皇は、約20年間にわたって、淀川流域の樟葉(枚方市)、筒城

(京都府綴喜郡)、弟国(京都府乙訓郡)に宮を営みました。継体大王は、

水運の大動脈である淀川を王権の基軸に据え、父母の縁地である近江や越をはじめ

尾張や河内、大和の豪族から妃を娶ることで勢力範囲を広げ、526年9月満を持して

大和の磐余玉穂(桜井市)に宮を移しました。

 

継体天皇には7名、あるいは9名の后妃がいました。正式の皇后「手白香皇女」の他には近江の息長・坂田氏から1名ずつ計2名、尾張氏から1名、中央豪族の和邇(ワニ)氏から1名が入内していますが、三尾氏からは2人も入内しており影響力の高さが際立っています。父の代から一族を支えたことが影響しているのでしょう。

 上の文章は右のサイトより引用 https://www.travel.co.jp/guide/article/11906/

上の写真は継体天皇を中心とした系図 

  出典:古代天皇列伝 学研(2010)Page78

上の写真は上記系図にさらに後に続く聖徳太子までの系図

 出典:古代天皇列伝 学研(2010)Page82

上の写真は継体天皇の后の名前が記載されている系図

出典:高槻市立 今城塚古代歴史館 常設展示図録 Page31

 

上の写真は継体天皇が507年に即位した樟葉宮(枚方市)の跡地に設置された石碑

507年~511年、樟葉宮に滞在しています。

樟葉宮の後、511年筒城宮(つつきのみや)、518年には弟国宮(おとくにのみや)

に宮を移し、桜井市の磐余玉穂宮(いわれたまほのみや)に入ったのは526年であった。

上の写真は磐余玉穂宮跡の現況。

上記の樟葉宮の近くには交野市の森遺跡がありこの時代に鉄器を加工した

遺物が出土しています。

 

上の写真は森遺跡の案内人の交野市教育委員会の真鍋成史さんの説明。

磐井との戦い(527-528)

朝鮮半島で伽耶をめぐって百済や新羅が争うなか、継体天皇は527年に朝鮮半島に

出兵します。海路を進む軍隊が九州北部にさしかかった時、筑紫君磐井が新羅と

結んで進軍を妨害し、朝鮮半島への海路を断ってしまいます。これに対してヤマト

王権は大将軍物部麁鹿火らを派遣し磐井を討ち取り、子の葛子には糟谷郡の土地を

献上させ屯倉としました。こうして、有力な地方豪族を力で圧倒したヤマト王権は

国内の支配体制を強化していきます。

上の2枚の写真は磐井氏の拠点福岡県八女市の岩戸山古墳と岩戸山歴史文化交流館 

いわいの郷における展示

上の写真は石人・石馬が破壊されたことを示す古資料(筑紫国風土記)

番組では宮崎大学名誉教授の柳澤一男さんの案内で石人・石馬の解説などがあった。

上の写真は今城塚古墳から出土の円筒埴輪に描かれた船の絵

筑紫君磐井の反乱を制圧するために派遣した大型輸送船をモチーフとして描かれた

 

三嶋之藍陵=今城塚古墳(531年)

531年、継体天皇は病のため、磐余玉穂宮で亡くなりました。没年は日本書紀は82歳

古事記では43歳としています。紀記ともに大王は藍野陵に葬られたと記しています。

このことから今城塚古墳が継体天皇の墓であるとされています。継体天皇が長年、

勢力の基盤とした琵琶湖、淀川流域の中で、淀川北岸の三島の地を墓所として選んだ

のは、死後も安らかに守られる場所としてこの地を重視していたことの現れです。

上の写真は継体天皇の墓として有力とされる高槻市の今城塚古墳

横穴式石室には3基の家形石棺が収められていた。

番組では阿蘇山の火砕流から出来た岩石を家形石棺にしたことについて宇土市の

文化財保護審議会 委員の高木恭二さんが石切り場を訪問解説された。

上の写真は継体天皇の棺と石室について説明される今城塚古代歴史館の森田克行さん

上の2枚の写真は2005年に実施された継体天皇の石棺運搬の実験

 

継体天皇が行った改革

 ■墳墓の型式 竪穴式石室→横穴室石室

 ■継体以降、巨大な古墳が造営されなくなった。(古墳時代の終焉)

 ■大陸文化の受容(儒教、仏教、易など)

 ■地方豪族の支配 地方の有力豪族を国造(くにのみやつこ)に任命、支配下の地域の要所に屯倉(みやけ)を設置

 ■氏姓制度の強化と大王(天皇)家の権力強化

上の写真は氏姓制度の解説

出典:詳説 日本史図録 第2版 山川出版社(2008)Page32

 

最後に高槻市立 今城塚古代歴史館 常設展示図録より継体天皇関連の地について

纏められた図を添付して筆を置きます。 

 

 

 

 

 

 


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