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万延元年 遣米使節

2019年08月28日 04時06分31秒 | Weblog

現在、図書館より高野和人著の万延元年 遣米使節「航米記」を借りて読んでいる関係で

この本の要旨と万延元年(1860)遣米使節についてインターネットなどから調べた結果を

纏めてみました。木村鉄太(1828-1862)が観て感動したものをスケッチとして数多く

残しています。このスケッチを利用して遣米使節が観てきた当時の世界の姿に迫って

いきたいと思います。(スケッチは著作権が切れていると解釈し掲載)

 

万延遣米使節の概要

 万延元年遣米使節は、江戸幕府が日米修好通商条約の批准書交換のために万延元年(1860)

に派遣した使節団である。嘉永7年3月3日(1854年3月31日)に江戸幕府とアメリカ合衆国が

締結した日米和親条約で下田と函館を開港後、最初の公式訪問団であった。

日米修好通商条約の締結は安政5年(1858)6月19日(新暦換算7月29日)ポーハタン号上で

ハリス総領事と幕府全権岩瀬忠震(ただなり)らが調印した。

日米修好通商条約は14か条から成りその内容は両国の親睦を図り両国官人を交換派遣する事、

長崎、函館の他に神奈川、兵庫、新潟を開港し、追って下田を閉鎖する事等々であった。

最後の第14条に「日本政府より使節を派遣して米国の盛頓(ワシントン)に於いて本書を

交換すべし」との箇条があり、幕府はこれに基づいて使節をアメリカに派遣することとなり

正使新見豊前守正興(まさおき)、副使村垣淡路守範正(のりまさ)、監察小栗豊後守忠順

(ただまさ)以下77名が派遣された。使節一行は米国より迎えのポーハタン号に乗って出発

することになったが、同時に幕府は自ら別船1隻を仕立て使節の警護という名目かたがた

遠洋航海による海上訓練を兼ねてポーハタン号に随行することになった。

その随伴船に選ばれたのは咸臨丸である。

1860年当時の情勢

安政7年・万延元年(1860) 杉文 18歳
 1月13日 遣米使節護衛艦咸臨丸、木村喜毅、勝義邦(海舟)、福沢諭吉らを乗せて出発
 1月18日 遣米使節、米軍艦ポーハタン号で出発
 2月    ジョセフ・ヒコ22歳、米領事館を辞任
 2月26日 咸臨丸、サンフランシスコに到着
 3月   ジョセフ・ヒコ 横浜で貿易商館を開く
 3月 3日 桜田門外の変勃発。大老井伊直弼暗殺される
 4月 3日 日米修好通商条約の批准書を交換
11月 1日 幕府、和宮内親王降嫁を発表
12月 5日 米国公使館通訳のヒュースケン、中ノ橋付近で襲撃される。 

   尊王攘夷運動が盛んで外国人にとって日本国内は危険極まる場所であった。

 

派遣使節(77人)のメンバー

正使(外国御奉行) 新見豊前守正興(まさおき)   従者は三崎司、佐山八郎以下9名

副使(外国御奉行) 村垣淡路守範正(のりまさ) 従者は高橋森之助、西井金五郎以下9名

監使(御目付)   小栗豊後守忠順(ただまさ) 従者は木村鉄太、吉田好三以下9名

勘定方組頭     森田清行(岡太郎) 従者は広瀬格蔵、狩野庄蔵以下5名

外国奉行頭支配組頭 成瀬正典(善四郎) 従者は北条源蔵以下3名

外国方調役     塚原昌義(重五郎) 従者は嶋東西八と谷村左右助の2名

御徒目付      日高圭三郎     従者は伊東久三郎と庵原熊蔵の2名

          刑部鉄太郎     従者は佐藤栄三と小池専次郎の2名

御定役       松本三之丞     従者は大濱玄之助1名

          吉田佐五右衛門   従者は岸珍平1名

御普請役      増頭俊次郎     従者は佐野鼎1名

          辻芳五郎      従者は中村信九郎1名

御小人目付     栗島彦次郎     従者は坂本泰吉郎1名

          塩沢彦十郎     従者は木村傳之助1名

御医師(本造)   宮崎立元      従者は斎藤語一郎1名

   (外科)   村山伯元      従者は大橋金蔵1名

御傭医師(内科)  川崎道民      従者は嶋内英之助1名

訳司        名村吾八郎     従者は片山文吉1名(3人の通訳に対して1人)

          立石得十郎

          立石斧次郎

 通訳の3名については下記のサイトに写真が写っています。

  https://www.whitehousehistory.org/the-japanese-mission-of-1860

食事を担当した飯事人は喜三郎、弥助ほか6名

 

 

 

出典:レンズが撮らえた 外国人カメララマンの見た幕末日本Ⅰ Page70

上の写真はワシントン海軍工廠での使節団(万延元年3月25日)、正使新見正興(中央)、

副使村垣範正(左から3人目)、監察小栗忠順(右から2人目)、勘定方組頭、森田清行(前列右端)、

外国奉行頭支配組頭、成瀬正典(前列左から2人目)、外国奉行支配両番格調役、塚原昌義(前列左端)

 

万延元年遣米使節の行程(日付は旧暦

安政7年(1860) 1月18日 使節団一行は築地の海軍場に集合、

              川崎沖でポーハタン号(鉋花丹舩)に乗船

上の写真はポーハタン号 

ポーハタン号の司令官はジョサイア・タットノール・ジュニア(英: Josiah Tattnall, Jr.、

1794年6月14日 - 1871年6月14日)で以下乗組員総数は220人である。

         1月22日 午前7時、横浜出航

         2月14日 オアフ島ホノルル港に到着

上の写真はオアフ島のホノルルの光景

ポーハタン号は航海中の時化により船がひどく破損したため修理することになる。

遣米使節のメンバーは小舟で上陸しメリケン人用の旅館に宿泊

         2月18日    三公が ハワイ王・王妃に謁見

         2月27日 ホノルル港を出帆

         3月9日 サンフランシスコ到着

             先着(2月26日着)の咸臨丸と会う

             咸臨丸は5月7日に日本に帰港しています。

上の写真はサンフランシスコ港

         3月13日 サンフランシスコ市主催の歓迎宴

万延元年(改元) 3月18日 サンフランシスコを出帆

        閏3月5日 パナマ着 汽車でアスピンウォールに向かう

上の写真は当時の蒸気機関車

 

         3月8日 ロアノーク号に乗船 アスピンウォール港発

     ロアノーク号(USS Roanoke)の詳細は下記のWikipediaで参照できます。

      https://en.wikipedia.org/wiki/USS_Roanoke_(1855)

     ここで滞在中にコロンブスが初めて到着した地であるポルトベロにも寄っています

         3月19日 咸臨丸がサンフランシスコ港出帆

         3月20日 ニューヨークの入り口、サンディ・フック碇泊

 

上の写真はサンディ・フック 

当初はここに上陸し汽車でワシントンに行くことを考えていたが許可が出ず、やむを得ず

ロアノーク号でワシントンに向かう。

         3月23日 ワシントンへの河口、ハンプトン・ローズ着

         3月24日 ロアノーク号よりフィラデルフィア号に移乗

上の写真はワシントンのスケッチ

         3月25日 ワシントン海軍造船所に到着

         3月28日 ブキャナン大統領に謁見

         https://www.ny.us.emb-japan.go.jp/150JapanNY/jp/history.html

         3月30日 大統領主催歓迎会

         4月2日  日米修好通商条約批准書を交換

              大統領主催晩餐会

         4月20日 ワシントン発、ボルチモア着

         4月21日 ボルチモア発 フィラデルフィア着

上の写真はフィラデルフィアのスケッチ

         4月28日 フィラデルフィア発、ニューヨーク港到着。咸臨丸が浦賀に帰着

上の写真はニューヨークの埠頭のスケッチ

         5月8日 ペリー総督旧宅を訪問

         5月12日 ナイアガラ号に乗船

ナイアガラ号の船長はWilliam W. McKean(海軍大佐)で乗務員は総計約500人

         5月13日 ニューヨーク港出航

         5月28日 大西洋上のポルト・グランデ着

上の写真はグランデ港のスケッチ

         6月20日 西アフリカのポルトガル領ロアンダ着

上の写真はロアンダのスケッチ

         6月29日 ロアンダ港発

                         7月10日 喜望峰(英国領)を通過

         8月15日 アンジャ・ポエン港に停泊

         8月16日 ジャワのパタビア港に到着碇泊

上の写真はパタビアのスケッチ

上の写真はパタビアの埠頭

         8月26日 パタビア港発

         9月9日  香港に到着碇泊

上の写真は香港のスケッチ

上の写真は九龍城

         9月17日 香港発

         9月27日 横浜に帰着

         9月28日 築地海軍操練所に上陸

         

 参照資料: 

 1)高野和人著の万延元年 遣米使節「航米記」肥後藩士 木村鉄太の世界一周記

       

           

 

関連サイト:

 国会図書館デジタルアーカイブhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/953175

 航米記 http://tozenzi.cside.com/kohbeiki.html


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