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昭和の選択 東京大空襲が生んだ悲劇の傑作「噫(ああ)横川国民学校」を視聴して

2017年03月10日 05時25分46秒 | 役立つ情報
昭和の選択 東京大空襲が生んだ悲劇の傑作「噫(ああ)横川国民学校」が
NHKテレビBS3で3月9日20:00から放送があった。

書家の井上有一(1916-1985)が書いた作品「噫横川国民学校」の時代背景や
作者の気持ちを推し量るもので見ごたえがあった。

番組の中から空襲の記録などを写真紹介していきます。

まず、東京大空襲をWikipediaで調べてみました。

「東京大空襲(とうきょうだいくうしゅう)は、第二次世界大戦中にアメリカ軍により
行われた、東京に対する焼夷弾を用いた大規模爆撃の総称。
東京は、1944年(昭和19年)11月14日以降に106回の空爆を受けたが、
特に1945年(昭和20年)3月10日、4月13日、4月15日、5月25日の空襲は
大規模であった。
通常「東京大空襲」と言った場合、特に規模が大きかった1945年(昭和20年)
3月10日に行われた空襲を指すことが多い。民間人にも大きな被害を与えた。」


Wikipedia(Bombing of Tokyo )へのリンク


2012年3月18日(日)21:00~21:50にNHKスペシャル 東京大空襲より
上の写真は東京都慰霊堂に眠る3月10日の大空襲の犠牲者10万5千人の骨壷を
収容した部屋の紹介です。大きな骨壷は身元不明なものだそうです。
東京大空襲では3月10日 0時8分に深川への爆撃を合図に2時間余続いたそうです。

3月10日は1999年に空襲犠牲者を追悼し平和を願うことを目的として
「東京都平和の日」に定められ、永遠に記憶に留める日となった。



上の写真は両国の東京都立横綱公園内にある
東京大空襲犠牲者を追悼し平和を祈念する碑です。撮影は2007年x月


上の写真は2007年に撮った東京都慰霊堂(当時 東京に勤務)
こちらは大正12年(1923)9月1日の関東大震災で被災された人々や
昭和20年(1945)3月10日他の東京大空襲の犠牲者を慰霊するために
都が建てたものです。

この慰霊堂は昭和5年(1930)9月に伊藤忠太氏他の設計で建坪は
380坪弱あるそうです。

毎年3月10日にこちらで東京大空襲の犠牲者を悼み慰霊の法要が実施されます。

昭和20年(1945)3月10日の空襲では午前0時過ぎから約2.5時間東京の下町が
279機のB29と32万発の焼夷弾による空襲で一瞬にして10万人を超える(文献では
97,031人という資料もあり)貴重な命が奪われた。

大空襲の夜が明けた三月十日十二時の大本営発表によれば、
本三月十日零時過ぎより二時四十分の間、B-29 約百三十機主力を以て帝都に来襲、
市街地を盲爆せり。右盲爆により都内各所に火災を生じたるも、宮内省主馬寮は
二時三十五分、その他は八時頃までに鎮火せり。
現在までに判明せる戦果次の如し。
撃墜: 十五機
損害を与えたるもの:約五十機

空襲による甚大な人的、物的被害については、全く触れられていませんでした。


2012年3月18日(日)21:00~21:50にNHKスペシャル 東京大空襲より
上の写真は昭和19年(1944)11月24日 東京荏原地区の空襲で被害を受けた民家の
写真である。78人が死亡されたとのこと。
東京が初めて無差別の焼夷弾による空爆を受けた日である。
以降昭和20年5月末まで106回の空爆があった。

これまでは東京大空襲を概観するという意味で書いたもので番組の内容はここから
記載していきます。




上の写真は書家の井上有一(1916-1985)が書いた作品「噫横川国民学校」と
井上宥一氏晩年の写真です。

作品は井上有一氏が昭和20年(1945)3月10日当時勤務していた横川国民学校に
避難してきた国民1,000人あまりと彼の教え子8名が炭となって死んでいった姿を
書いたもので井上有一が晩年に書いたものだそうです。
30年あまり懺悔の念でどうしても書けえなかった。

書の内容については下記のサイトに書かれていますリンクさせていただきます。
 http://www.kmine.sakura.ne.jp/kusyu/kuusyu.html






上の3枚の写真は3月10日の惨禍を記した井上有一氏のメモ




上の2枚の写真は昭和21年(1946)に井上有一氏が残した横川国民学校の記録




上の2枚の写真は東京大空襲・戦災資料センターと焼夷弾の展示
焼夷弾は19本2列の38本が1発の爆弾に含まれる構造となっている。




上の2枚の写真は焼け跡の東京



上の写真は昭和19年?に出された学童疎開に関する指令書


上の写真は横川国民学校の疎開した児童と井上有一氏が写った集合写真


上の写真は疎開先に向かう児童 東京から23.5万人が疎開


上の写真は昭和20年(1945)の正月に横川国民学校の疎開した児童が書いた書













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