2020年3月3日、大津市坂本で明智光秀の所縁の場所を訪ね歩きました。
本日はその第10回で西教寺を紹介します。今回で最終回とします。
西教寺は聖徳太子が創建したと伝わる天台真盛宗の総本山で、明智光秀の供養塔や
妻の煕子の墓がある明智家ゆかりの菩提寺です。
シリーズ過去の記事:
第1回 坂本城本丸跡
第2回 明智光秀像と坂本城跡公園
明智光秀の略年譜を掲載
第3回 東南寺
第4回 坂本城址の石碑
第5回 明智塚
第6回 聖衆来迎寺
第7回 石積みの郷公園
第8回 盛安寺
第9回 宇佐山城跡と宇佐八幡宮
西教寺の基本情報
住所:大津市坂本5丁目13-1 TEL:077-578-0013
宗派:天台真盛宗(総本山 末寺400余り) 山号:戒光山 御本尊:阿弥陀如来
創建:聖徳太子がその恩師高麗の僧彗慈・恵聴のために創建(伝承)
中興:元享4年(1324)慈恵大師良源、恵心僧都源信が念仏道場とした
再興:文明18年(1486)真盛上人が西教寺に入寺 堂塔と教法を再興
元亀2年(1571)の比叡山焼き討ちで焼失した伽藍は明智光秀、紀州徳川家
により再興、天正18年(1590)京都の法勝寺を合併
公式サイト:http://saikyoji.org/
所在地のGoo地図を添付しておきます。
光秀の供養塔とその一族の墓
上の写真は坂本城主明智日向守光秀の供養塔とその一族の墓
総門(坂本城遺構)
上の写真は西教寺の総門(坂本城遺構)
この総門は天正年間に坂本城主明智光秀が、坂本城門を移築したと言われています。
昭和59年(1984)に老朽化が進み修理が加えられたが、形はそのままの姿で復元。
光秀の妻煕子の墓
明智光秀は煕子(ひろこ)が存命中は側室を置くことなく三男四女をもうけ、
仲むつまじく暮らしていたと伝わっています。石山本願寺攻めで、病に倒れた
光秀を、煕子は坂本城で懸命に看病しました。光秀が回復すると今度は煕子が病に
倒れ、坂本城で亡くなりました。葬儀は西教寺で行われ、当時、妻が先に死んだ場合
夫は参列しないのが慣わしでしたが光秀は葬儀に参列したといわれています。
光秀の愛妻家の一面が判るエピソードとして西教寺で語り継がれています。
明智光秀公の辞世の句
戦死者への供養米寄進
明智光秀は元亀4年(1573)5月24日、堅田城に拠った本願寺光佐を討った時(2/19)、
戦死した侍大将から足軽までの18人の家臣に対して平等に米禄を西教寺に寄進しています。
明智光秀が家臣を重んじる優しい性格であったことを示すエピソードとして
TVなどでも紹介されています。今回は下記のyoutube動画での紹介を添付。
その時歴史が動いた 明智光秀の真実~心優しき武将~
境内の見どころ
(1)本堂と客殿
本堂は、江戸時代の1739年に再建されたもので、国の重要文化財に指定されています
客殿は、大谷吉継の母らの寄進により、1598年に建てられたもので、同じく国の重要文化財です
客殿は淀城から移築とも言われています。
(2)御廟(宗祖真盛上人廟)
(3)客殿庭園
こちらの庭園を観るためには500円の拝観料を払って大本坊(庫裡)から客殿に入場する必要があります。
(4)宗祖大師殿
ここからの琵琶湖方面の眺めは抜群でお勧めスポットです。
(5)勅使門と寺標石柱
(6)萬日法会の石碑
字数の関係で、写真を略します。18回までの石碑が並んでいます。
19回目の法会は令和3年(2021)の11月2日~8日に挙行される予定です
もう少し書き足りない部分もありますが、字数30,000字以内の制限からこの辺で筆を止めます
最後に境内図を添付しておきます。
このシリーズもやっと最終回まで書き終えてほっとしています。
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