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大津市坂本 明智光秀の所縁の場所訪問記 on 2020-3-3 その6 聖衆来迎寺

2020年03月22日 05時00分25秒 | 滋賀県情報

2020年3月3日、大津市坂本で明智光秀の所縁の場所を訪ね歩きました。
本日はその第6回で聖衆来迎寺を紹介します。

坂本城から移築された山門や森蘭丸の父親の森可成の墓があります。

森可成(よしなり)は宇佐山城主で織田信長に敵対する浅井・朝倉軍に対峙防戦

しましたが比叡山の僧兵が浅井・朝倉方についたこともあり戦死しました。


シリーズ過去の記事:
第1回 坂本城本丸跡

第2回 明智光秀像と坂本城跡公園

第3回 東南寺

第4回 坂本城址の石碑

第5回 明智塚

 

聖衆来迎寺の基本情報

住所:大津市比叡辻2-4-17 TEL:077-578-0222

宗派:天台宗 山号:紫雲山 御本尊:阿弥陀如来、釈迦如来、薬師如来の三仏

創建:延暦9年(790)最澄により開山 創建当時は地蔵教院

改称:長保3年(1001)源信(恵心僧都)がこの寺に入り改称、念仏道場として再興

中興:大永7年(1527)真玄(近江守護六角高頼の五男の高信)により中興

Goo地図を添付しておきます。

  

表門(国重文)

上の2枚の写真は山門の中景と遠景

表門は、明智光秀が築城した坂本城の城門を移築したとの寺伝がありましたが、

平成21年(2009)~23年(2011)に行われた解体修理により、櫓門の二階部分を

取り除き一階部分の上に本瓦葺の屋根を載せたと考えられるとのこと。

使われた工具の加工痕が坂本城築城の年代と一致すること、聖衆来迎寺と明智光秀

との深い繋がりがあったことから、坂本城の城門を移築したことがほぼ明らかに・・・

 

説明板

書かれている内容を要約すると

聖衆来迎寺は延暦9年(790)伝教大師(最澄)が開創、 創建当時は地蔵教院

長保3年(1001)源信(恵心僧都)がこの寺に入り改称、念仏道場として再興

国の重要文化財である本殿、客殿、開山堂、明智光秀が築城した旧坂本城門の

表門、森可成の墓など、歴史とのかかわりのの深い寺である。

寺標

森可成の墓

上の2枚の写真は森可成の墓の正面と側面

この墓があったおかげで信長の比叡山焼き討ちの難を逃れた。

したがってこの寺には多くの文化財が残され近江の正倉院と呼ばれることも・・・

元亀元年(1570)の志賀の陣で浅井・朝倉連合軍に対して奮戦したが森可成は

討ち死にした。Wikipediaより森可成の最期についての記述を引用紹介します。

可成の最期については記録に次の様に書き残されている。
「浅井長政、朝倉義景の大軍、短兵急に戦うによって、森可成、織田九郎防戦火花を散らし、
九天九地の下を通り、終日合戦なり。浅井、朝倉新手を入れ替えて攻め戦うによって、
織田九郎、森可成両将とも下坂本瀬戸在家にて討ち死になり」とある。享年48。 
討ち死にしたものの坂本で数日間に渡って浅井・朝倉連合軍の行軍を妨害し近江に
釘付けにした為、連合軍は信長の背後を突くことは出来なかった。
宇佐山城も家臣の各務元正、肥田直勝などが奮戦、落城を免れた。
後日、2人は信長から賞賛を賜った。

森可成の首は密かに聖衆来迎寺の住職により運ばれ荼毘に伏された。

この事象により信長は比叡山焼き討ちの対象にしなかったと推察されています。

森可成(もりよしなり)は大永3年(1523)、森可行の子として
尾張国葉栗郡蓮台(現岐阜県羽島郡笠松町)に生まれます。
美濃国の守護大名である土岐氏に仕え、斎藤道三により土岐氏が滅ぼされた後の
天文23年(1554)には尾張国で織田信長に仕えました。
信長の家督相続と尾張国統一に尽力した生涯でした。
織田家においては柴田勝家より以前に信長に仕えた年長組で、美濃衆として活動。
槍の名手で、関兼定銘の十文字槍の使い手でした。
武勇の誉れ高く「攻めの三左」という異名を誇ったとも。
数多くの武勇伝が伝わっていますが、
信長の上洛後は京都周辺の寺社や堺の会合衆などに宛てて
非常に多くの文書を発給しており、
織田家の重臣として政務にも大きく関わっていたと推測できます。

子宝に恵まれ、生まれた六男三女とも正室えいとの間の子供であり、
愛妻家であったそうです。
<子供>
男子:
可隆(手筒山城攻めで討死・享年19初陣)
長可(小牧・長久手合戦で即死享年27)
蘭丸(成利)(本能寺の変で討死享年18)
坊丸(長隆)(本能寺の変で討死享年17)
力丸(長氏)(本能寺の変で討死享年15)
忠政(美作津山藩初代藩主)
女子:
娘(青木秀重室)
娘・うめ(木下勝俊室)
娘・碧松院(関成政室)

 

織田秀信の母・寿々(鈴姫)の墓

織田秀信は信長の孫(幼名は三法師)

寿々姫=鈴姫(徳寿院)は織田信忠の側室で塩川長満の娘の他に森可成の娘、

武田信玄の娘(松姫)という説もあり

寿々姫の法名は「徳寿院殿繁林恵昌大姉」

本堂(国重文)

上の写真は本殿の遠景

開山堂(国重文)

客殿(国重文)

 

 

境内社

鐘楼

石仏

本坊

放生池

境内の石造品(宝篋印塔、宝塔など)

見応えのある寺の境内であった。

国宝に指定されている絹本著色六道絵 15幅(鎌倉時代)をはじめ数多くの重要文化財

を所蔵。文化財は、毎年8月16日に虫干しされ公開される。絵画、工芸品等の大部分は、

平素は京都国立博物館やびわ湖文化館などに寄託されている。


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