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近江八幡のヴォーリズ建築 on 2019-3-27 その9(最終回) ヴォーリズ像とヴォーリズの生涯

2020年11月16日 05時02分08秒 | 滋賀県情報

近江八幡のヴォーリズ建築のシリーズの第9回でヴォーリズ像とヴォーリズの生涯

というテーマで写真を中心に紹介します。今回でシリーズ最終回とします。

以下、過去のシリーズ記事にリンクしておきます。

 

 第1回 近江八幡のヴォーリズ建築 on 2019-3-27 その1 アンドリュース記念館

シリーズの第1回はヴォーリズが初めて建築設計したアンドリュース記念館について

紹介しました。但し、表題はGoing Nuts アンドリュース記念館での飲食となっています。

 第2回 近江八幡のヴォーリズ建築 on 2019-3-27 その2 近江兄弟社学園 教育会館とハイド記念館

 第3回 近江八幡のヴォーリズ建築 on 2019-3-27 その3 ヴォーリズ記念館(旧ヴォーリズ住宅)

 第4回 近江八幡のヴォーリズ建築 on 2019-3-27 その4 クラブ ハリエ 日牟禮カフェ

 第5回 近江八幡のヴォーリズ建築 on 2019-3-27 その5 近江八幡教会

 第6回 近江八幡のヴォーリズ建築 on 2019-3-27 その6 近江八幡市立資料館

 第7回 近江八幡のヴォーリズ建築 on 2019-3-27 その7 旧近江兄弟社地塩寮(近江八幡教会牧師館)

 第8回 近江八幡のヴォーリズ建築 on 2019-3-27 その8 池田町洋館街

 

最終回として1,600以上の建築物を手掛けたヴォーリーズ建築事務所を創設した

建築家ヴォーリズ像とヴォーリズの生涯を取り上げます。

上の2枚の写真はヴォーリズ像です。

近江八幡市で初の名誉市民となったW.M.ヴォーリズ。ゆかりの近江兄弟社の

本社ビルの脇で、お祝いの花束を女の子が手渡しているところです。

 

上の写真はヴォーリズ像の位置が判る地図

 

読み難いのでそのまま転記しました。

名誉市民ウィリアム・メレル・ヴォーリズは、1880年(明治13年)10月28日、米国カンザス州レブンワース市に生まれた。両親の感化により信仰心の厚かった彼は、1905年(明治38年)2月、24歳のとき、国際YMCAから日本の近江八幡に遣わされた。
  以来、1964年(昭和39年)83歳で亡くなるまでこの地を去ることなく、キリスト教精神に支えられた、愛に満ちた理想社会実現のため、彼を慕う多くの人々と力を合わせて、医療や教育事業を進め、建築に卓越した手腕を発揮し、キリスト教を伝道し、福祉や文化を高めるなど、多彩な社会福祉活動を展開した。
  そして、これらの活動を経済的に支えるため、建築設計会社をはじめメンソレータム(現メンターム)で有名な製薬会社を興し、起業家としても大いなる成功を収めた。
  外観よりも内容を重視したヴォーリズの西洋風建築は、大丸心斎橋百貨店や関西学院大学をはじめ、住宅、教会など国内外に1600にも及んだ。
  多くの協力者と共に成し得た数々の偉大な事業とその精神は、今もなお引き継がれ、近江八幡市民に広く深く息づいており、その評価は衰えることなくますます強く私たちにその人となりを慕わせずにはおかない。
  「世界の中心は近江八幡にあり」と唱え、すべての人が幸せになれるまちづくりを目指した彼の足跡を、かけがえのない宝として近江八幡市民の名において永遠に顕彰するため、ここ「ヴォーリズ創めの家」ゆかりの地に記念の像を建立し、これからの郷土づくりの糧にしていきたい。
1999年5月
近江八幡市

 

 

上の2枚の写真は米国カンザス州Leavenworthとヴォーリズを紹介した説明パネル

レブンワースは1854年から存在するアメリカ西部開拓の拠点として重要な役割を

担っていました。ヴォーリズは1880年にこの町で生まれました。

ヴォーリズは近江商人の里として知られる近江八幡の初期(明治末~大正・昭和初期)

の近江八幡発展に大きく寄与した。

基督教を広め、精神面でも大きな影響を与えた。

1997年に近江八幡市とLeavenworth市は姉妹都市となっています。

 英文のパネルは2000年10月13日に Vories財団により建立されました。

以下、ヴォーリズの生誕から近江八幡の商業学校に英語教師として赴任するまでの

年譜を添付しました。

1880年 -10月28日W.M.ヴォーリズは 米国カンザス州レブンワースの母方の祖父

    ウィリアム・メレルの家で生まれた。祖父、両親、伯母(母の姉)、従妹

    (伯母の娘 当時20歳くらい)の5人と暮らしていた。

    父、ジョン・ヴォーリズはオランダ系の血をひき、商人として成功を収めた。

    また、教会での奉仕活動を熱心に続ける正義感あふれる人でもあり、母ジュリア

    とはその教会活動での奉仕活動で出会った。母ジュリア・ヴォーリズはオハイオ州

    レイク・エリー・セミナリー神学校を卒業後、レーブンワースの教会で日曜学校

    教師を務めていた。
1882年 -2歳の頃、腸結核と診断され、回復はしたものの医師から7歳か14歳になれば

    病気が再発する恐れがあると言われていた。この頃から教会の礼拝に出席

    するようになり、後日、幼児洗礼を受ける。
1887年 - 7歳の頃、米国アリゾナ州フラッグスタッフに一家で転居。

上の写真は幼少期のW.M.ヴォーリズ 出典:近江兄弟社本社資料室の説明パネル

以下、Wikipediaより25歳で来日するまでの記事を添付しておきます。

1897年ーイーストデンバー高校に入学。
1900年 - イーストデンバー高校を卒業。コロラドカレッジ理工系課程に入学し、YMCA活動を開始する。
          当初は建築家志望でマサチューセッツ工科大学への入学が決定していたが、
          家庭の経済状況を考えて近くのコロラドカレッジに入学している。
1902年 - 学生宣教義勇軍大会での講演に感激し、外国伝道への献身を決意する。
           このころ、のちの関西学院第4代院長のベーツと知り合う。文系課程に転じる。
1904年 - コロラドカレッジ哲学科を卒業し、コロラドスプリングスYMCAの主事補となる。
1905年 - 滋賀県立商業学校(現滋賀県立八幡商業高等学校)の英語科教師として来日する。

上の写真は来日して間もない1907年、27歳頃のW.M.ヴォーリズ

 

W.M.ヴォーリズの年譜について下のサイトに写真入りで掲載、リンクさせて頂きます。

 https://www.omi8.com/omihachiman/local-history/vories/ryakureki/


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