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舞鶴への2泊3日の旅行記 on 2021-11-17~11-19 その5 松尾寺

2021年12月07日 04時50分40秒 | 京都情報

本日は舞鶴への訪問記シリーズの第5回で11月17日に訪問の松尾寺について

紹介します。松尾寺は西国三十三観音巡礼第二十九番札所として有名です。

過去の訪問記

 第1回 舞鶴への2泊3日の旅行記 on 202-11-17~11-19 その1 舞鶴市の概要 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

 第2回 舞鶴への2泊3日の旅行記 on 2021-11-17~11-19 その2 舞鶴引揚記念館 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

 第3回 舞鶴への2泊3日の旅行記 on 2021-11-17~11-19 その3 海軍割烹術食堂 羅針盤でのランチ - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

 第4回 舞鶴への2泊3日の旅行記 on 2021-11-17~11-19 その4 復元引揚桟橋 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

 

松尾寺の基本情報

住所:舞鶴市松尾532 TEL:0773-62-2900

宗派:真言宗醍醐派  山号:青葉山 御本尊:馬頭観世音菩薩(馬頭観音)

拝観時間:8:00~17:00

御詠歌:そのかみはいくよへぬらん便りをば 千歳もここに松の尾の寺

開山:8世紀初頭 唐の僧、威光上人  中興:惟尊(ゆいそん)

公式サイト:京都府舞鶴市 西国第二十九番札所 青葉山 松尾寺 公式ホームページ (matsunoodera.com

 

本堂

上の写真は本堂の遠景 建物は京都府指定文化財(建造物)

鳥羽天皇の行幸があり、寺領四千石を給い、寺坊は65を数えて繁榮した。

鳥羽上皇は我が子(崇徳天皇)の出自(実は父・白河法皇の子ではないかという疑惑)に

悩むある日、煩悩を打ち砕く松尾寺の馬頭観音の存在を知り、上皇后の美福門院を

伴い参詣したと言われる。

正徳6年(1716)に類焼したのち牧野英成により享保15年(1730年)に修築されている。

建築にあたって、当時有力な大工集団「富田一族」に地元の大工が加わった。

当初、柿葺(こけらぶき)であったが昭和6年(1931)銅板葺に改められた。

上の写真は本堂の内部

上の写真は内陣で唐の僧威光が、松の木の下で感得した馬頭観音を胎内に収める

観音像(秘仏)が安置されている。

出典:NHK 趣味悠々 はじめての西国三十三所巡り 2008年10~11月 Page147

上の写真はお前立の馬頭観世音菩薩 

西国三十三霊場中、馬頭観音を本尊とするのは松尾寺だけ

出典:NHK 趣味悠々 はじめての西国三十三所巡り 2008年10~11月 Page147

上の写真は内陣の天井近くに祀ってある十三仏

出典:NHK 趣味悠々 はじめての西国三十三所巡り 2008年10~11月 Page147

上の写真は唐破風の彫刻

上の写真は本堂の壁の彫刻

経蔵

上の写真は経蔵 享和2年(1802)の建築 京都府指定文化財(建造物)

一切経が納められているそうです。

仁王門

上の写真は仁王門 建立時期は正徳年間(1711~1716)の建立、修復工事中であった。

京都府指定文化財(建造物)

上の写真は仁王門の扁額

大師堂

本堂から渡廊下で大師堂に繋がっています(上の写真)

上の写真は弘法大師像(手前)と背後の大師堂

庫裡

上の写真が庫裡。納経朱印はこちらで受付。

鐘楼とイチョウの木

寺伝では元永2年(1119)鳥羽天皇が美福門院と七堂伽藍再建の落慶式に参加された

時に手植えされたとされる。樹齢800年を超える巨樹である。

手水鉢

勅使門

皇室の菊の御紋が刻まれていました(上の写真)

勅使門の奥には方丈と思われる立派な建物がありました。(下の写真)

六所神社

厳島神社などと同じ両部鳥居の奥に鎮座しています。

銅葺屋根のお堂

回廊には六地蔵の石像が安置されています。

 

境内の歌碑

境内の石仏

 

トイレの中の張り紙

 和尚のおはなし (matsunoodera.com)

日露戦争記念碑

西国徒歩巡礼記念碑

 

鳥羽天皇の皇后「美福門院」も帰依

上の写真は西国二十九番霊場 松尾寺と書かれている石碑

横面に鳥羽天皇と皇后「美福門院」に関係する?字も刻まれています。

松尾寺の歴史

丹後と若狭の国境の青葉山にある。8世紀初頭の慶雲年間(704~708)、唐の僧威光が母国の霊峰「馬耳山」によく似た青葉山を訪れ、松の木の下で馬頭観音を感得。712年(和銅5年)、元明天皇の勅命で馬頭観音を安置する堂を造ったのが寺の起こりである。養老年間(717~724)、元正天皇の勅命で泰澄(白山を開山)が奥之院(妙理大権現)を開いた。

正暦年間(990~995)には春日為光が本尊馬頭観音を刻んだといわれています。

鳥羽法皇と美福門院が帰依し、鳥羽天皇の時代に時の住職惟尊に寺領と15の堂宇を授与。元永2年(1119)、惟尊が伽藍を中興整備。

行尊の三十三所巡礼手中記に16番松尾寺とあり、 1150年(久安6年)の長谷僧正の参詣次第に28番とある。のち29番となる。

織田信長の兵火で焼失。 1581年(天正9年)細川幽斎が本堂を再建。 1602年(慶長7年)京極高知が修復。1630年(寛永7年)焼失。正徳6年(1716)焼失。1730年(享保15年)修復。

円通寺の本初密門(1707-1788)に学んだ等空(1745-1816)が松尾寺を有部律の僧坊とした。

江戸時代は高野山円通寺、安芸・福王寺と共に「有部律の三僧坊」の一つとして知られた。

 

松尾寺の文化財

松尾寺の境内に入る入り口に上の写真のような指定文化財の一覧表の掲示がありました。

舞鶴の文化財という冊子より文化財の写真を添付しておきます。(宝物館に所蔵)

国宝

上の写真は丹後地方唯一の国宝絵画 絹本著色普賢延命像

昭和27年(1952)11月22日に国宝指定

12世紀作、美福門院の持念仏と伝えられる。大きさは縦139.4cm、幅67cm

普賢延命像には二臂と二十臂の二つの系統がある。前者は群象に支えられた金輪の上に

立つ一身三頭の白象に趺坐し、金剛薩〓と同形の五鈷杵(右)と五鈷鈴を執り、

後者は踏割蓮華に立つ四大白象に跌坐し、持物に金剛界十六大菩薩と四摂菩薩の

三摩耶形を執り、白象の頭頂に四天王が立つのを特色とする。


国指定の重要文化財

木造阿弥陀如来坐像 - 快慶作、鎌倉時代。(下の写真)


絹本著色孔雀明王像 - 鎌倉時代。(下の写真)


絹本著色法華曼荼羅図 - 鎌倉時代。(下の写真)


絹本著色如意輪観音像 - 徳治二年(1307年)一山一寧賛。(下の写真)


絹本著色終南山曼荼羅図 - 鎌倉時代。(下の写真)

 


重要無形民俗文化財
松尾寺の仏舞(松尾寺仏舞保存会)

上の写真は冊子「舞鶴の文化財」の表紙を飾っている松尾寺の仏舞

上の写真は松尾寺本堂で行われる仏舞の様子

舞儀音楽大会式として5月7日と5月8日に実施され、仏舞は5月8日に実施されます。

大日、釈迦、阿弥陀の各如来2人ずつの仏面をつけた舞手が典雅でゆるやかな舞を

繰り出す。

仏舞のYoutube動画をGooで共有させていただきました。

松尾寺の仏舞(京都府・舞鶴市)

【京都府舞鶴市】 松尾寺「仏舞」 2016.5.8

以下は文化庁のデータベースの解説文からの引用です。

松尾寺の仏舞は、仏の面をかぶった六人の舞手が、篳篥や龍笛など雅楽器の演奏にのせて舞うもので、今は行われなくなった舞楽の一演目をうかがわせるものである。
 京都府と福井県の境に、俗に若狭富士【わかさふじ】と呼ばれる青葉山【あおばやま】がある。その山の京都府側の中腹に松尾寺がある。同寺は八世紀初めの創建で、平安時代末期には観音霊場として信仰され、後に西国三十三所【さいごくさんじゅうさんしょ】観音霊場の第二十九番札所【ふだしょ】とされ、今も多くの参詣人を集めている。仏舞は、松尾寺の本堂の中で、毎年五月八日に披露されている。
 同寺本堂の内部は、正面約一五・三メートル、奥行き約一三・四メートルで、後方の約八・二メートルが、中央に須弥壇が置かれた内陣で、その手前側が参詣人が立ち入る場所になっている。内陣部分は手前側より五〇センチメートルほど高い。手前側の、右手前奥の壁際一隅に内陣と同様に一段高くなった場所がある。正面約二・五メートル、奥行き約二・八メートルで、内陣とは離れていて、その間は通路になっている。高くなった場所は、通常は寺の関係者が詰めていて、参詣人の求めに応じて朱印を押したり寺号などを記入したりしている。仏舞の公開当日になると、その一段高い場所を仏舞の舞台にするため、机などを片付けて、うすべりを敷く。通路部分には、内陣との間に板を渡し、その上に緋毛氈【ひもうせん】を敷いて楽人が座る場所にする。正面の須弥壇の向かって左側を白幕で仕切って、その奥を舞人が仏面を着け身支度をする場所にする。仏面は、舞人の顔の全面を覆うもので、頭には、光背を付けた宝冠をかぶる。六人の舞人のうち、二人は腰に鞨鼓を付け、両手にそれぞればちを持ち、二人は右手に振鼓【ふりつづみ】、左手にばちを持つ。舞人は、薄く青みがかった白い上衣に袴を着け、両手に手袋をして、左肩から袈裟をかける。
 仏面を着けた六人の舞人や楽人などが、須弥壇の前を行列して舞台に向かい、舞人は三人ずつの二列に並ぶ。緋毛氈を敷いた所には、一人ずつの楽太鼓、鞨鼓、篳篥の演奏者と三人の龍笛の演奏者の計六人の楽人が席に着く。楽太鼓の一打で仏舞が始まる。舞は、三人二列に並んだ舞人が、互いに内向きになっての舞、外向きになっての舞、六人が回りながら互いに居場所を入れ替わる舞がある。入れ替わる舞のときには、両手に何も持っていない舞人は、両手の指で阿弥陀如来や釈迦如来などの印【いん】を結ぶ。これらが繰り返されて、最後に入場のときと同じように列を作って退場して仏舞が終わる。
 この仏舞は、地元では六〇〇年ほど前に始まったと伝える。仏面の箱に書かれた享保十年(一七二五)の銘文や享保二十年(一七三五)、また宝暦十一年(一七六一)から天保十二年(一八四一)にかけて書かれた記録によって、一八世紀には、四月八日の仏誕会【ぶったんえ】に仏舞が行われていたことが確かめられる。現在、松尾寺では、毎年五月八日に仏誕会いわゆる花祭を行い、そのときに仏舞が演じられているが、四月から五月になったのは明治以降といわれている。
 六人の仏は、同様に一八世紀の寺の記録によると、二体ずつの釈迦如来、大日如来、阿弥陀如来で、両手にばちを持つ仏が釈迦、振鼓とばちを持つ仏が大日、何も持たない仏が阿弥陀であるとされる。また音楽は、越天楽や五常楽とされるが、それらは現在の雅楽の同名曲とは異なっている。
 現在、この仏舞は、松尾地区を中心に周辺地域の人びとも参加して伝承・公開されているが、昭和四十年代ころまで、それぞれの仏や楽器ごとに伝承する家筋が決まっていて、まず、その家の長男に、また跡取りがいない場合は兄から弟に限って厳密に伝えられてきた。
 なお仏舞は、古代にインドから伝わった舞楽の「菩薩」と呼ばれた曲目に基づくものと考えられる。現在、「菩薩」は曲の一部が残るが、舞が、どのようなものであったか明らかではない。


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